2012年12月8日土曜日

NHKラジオの「ラジオ深夜便」に出演しました。

2012128日(土)の午前4時から、「関西発ラジオ深夜便 明日へのことば」において、「今こそ三方よしの精神を」と題して、40分ほど話しました。

話の内容は、近江商人の三方よしを中心にしたものです。

近江商人を源流とする大企業は総合商社の伊藤忠商事、丸紅のほか、日本生命、ワコール、西川産業(ふとんの西川)、滋賀銀行などであり、繊維や醸造業などの企業は現在も全国に多数展開しています。なぜ一地方の商人が全国に飛躍できたのか?

その秘密は、三方よしの理念をもって商いに励んだことにあります。「売り手よし、買い手よし、世間よし」の三方よしは、近江商人だからこそ、この言葉が生まれたといえます。近江商人の商いは他国への行商が中心でした。そのために、出先の人々の信頼を得ることが欠かせなかったのです。つまり自利を遠くに見すえ、相手の利益を考える真摯な姿勢がなければならなかったのです。現在の言葉でいえば顧客満足(CS)であり、人を欺く商品を扱わないことはもとより、営利を直接の目的とせず、薄利を積み重ねて子孫の長久と家業の永続を大切に考えたのです。

日本は世界に冠たる老舗企業の国です。200年以上の社歴のある企業は世界の44%を占め、断然トップであり、その源流は近江商人にあるといえます。近江商人の経営理念は日本の企業経営の基本的な考え方になっています。しかし昨今は、企業活動と関係の深い地球環境の異変や内外で企業不祥事が続発し、企業倫理と企業の社会的責任(CSR)が問われています。企業の存在自体が世のためになっていなければ、その企業に明日はないのであり、これからの企業に求められているのは、まさに現代のCSRに通底した三方よしの精神といるでしょう。

番組担当の中村宏アナウンサーの話の引き出し方の巧みさに、誘われ助けられながら、およそ以上のような内容からスタートして、話を展開しました。

もっと詳しい話を希望される方には、拙著『近江商人 三方よしに学ぶ』(ミネルヴァ書房)があります。ご一読いただければ幸いです。

2012年10月17日水曜日


再論 近江商人の三方よしとCSR

                    

日本では、二〇〇三年三月に社団法人経済同友会が、「市場の進化と社会的責任経営」という小冊子を出してから、CSRCorporate Social Responsibility)経営ということがにわかに喧伝されるようになりました。この小冊子の提言する企業の社会的責任は、従来のような単なる経済的価値の実現やコストとしての社会貢献、法令順守といったものではないのです。

そこにあるのは、経済のグローバル化や情報化による市場の進化によって、企業は経済的価値だけでなく社会的価値の増大を求められるようになるとの認識です。これからの企業は、持続的発展のためにCSRを結果や義務としてだけでなく、最初から経営の中核に据えなければ未来は無いというのです。

 このような企業の社会的責任という観点からすると、日本には外来語のCSRに通底するところの多い生え抜きの経営理念があります。売り手よし、買い手よし、世間よし、という三方よしに代表される近江商人の経営理念です。

 

一 近江商人と三方よし

近江商人という人々は、近江国と称された現在の滋賀県域の出身者で、時代的には江戸時代から明治・大正期にわたって活躍した、近江に本宅を置き、日本全国を市場とした商人であります。

現在、近江商人に系譜をひく企業としては、伊藤忠、丸紅、日本生命、滋賀銀行、ワコール、西川産業、さらに多くの繊維商社・関東の醸造業などです。

 近江商人は地元の近江を活動の場とはせず、近江国外で活躍し、完成品である上方の物産を地方へ持下り、地方の物産を原材料として上方へ持上る行商を主要な営業活動としました。このような移出移入の商いは、小売ではなく、商人を相手とする卸商法であり、これを当時の言葉で、持下り商いと称しました。出店を設ける段階にまで成長すると、それは諸国産物廻しと呼ばれるようになります。

 この持下り商い、諸国産物廻しという商法は、世界中から原材料資源を輸入し、それを高い加工技術によって完成品として輸出する現在の日本の経済と経営と重なるものであり、その先駆形態として近江商人の富の源泉となったのです。

 天秤棒による他国行商から始まって、やがて出店を開くという商いが軌道に乗るには、長い年月と忍苦を経ての市場開拓が必要でした。地縁血縁のない他国での商売が成り立つには、地域の人々から信頼を得ることこそ第一義的に必要なことはいうまでもありません。その他国商いのための心構えから、三方よしと呼ばれる近江商人の経営理念を端的にあらわす標語が生まれたのです。まさに三方よしは、近江商人の商いそのものに由来する理念といえるでしょう。

 

二 利益に対する考え方

 三方よしの原典は、宝暦四年(一七五四)に神崎郡石馬寺の麻布商中村治兵衛宗岸が養嗣子の宗次郎宛に認めた書置きである。書置きには次のような一節があります。

 

  たとえ他国へ商いに参り候ても、この商い物、この国の人、一切の人々皆々こころよく着申され候様にと、自分の事に思わず、皆人よき様にと思い、高利望み申さず、とかく天道のめぐみ次第と、ただその行く先の人を大切に思うべく候、それにてはこころ安堵にて、身も息災、仏神の事、常々信心にいたされ候て、その国へ入る時に、右の通りにこころざしをおこし申さるべく候事、第一に候

 

 他国商いについて述べたこの一節こそ、三方よしの原典となったものです。

このなかで宗岸は、三つのことを伝えようとしています。

一つ目は、自分の持ち込んだ商品に自信をもちながら、相手の立場や満足を徹底して尊重しようとする姿勢です。現在の顧客満足(CS)ということに通じた考え方です。二つ目は、商いの結果としての利益に高利を望んではならない、損益は天道のめぐみ次第であるという位の薄利でよいというものです。三つ目は、遠い他国まで商いに来た以上は何とか儲けたいというような、自分本位の考えを抑えるために信仰を深めるように諭しています。

商人でありながら利益に対する欲心を抑えることを説いたのは、宗岸だけではありません。社歴四〇〇年を超える西川産業の祖である西川甚五郎家の文化四年(一八〇七)の家訓も、利益について次のように記しています。

 

 商い事、諸品吟味いたし、薄き口銭にて売り捌き、譬え舟間の節にても余分口銭申し受けまじく候

 

 商品の販売については、品質をよく吟味した上で、できるだけ少ない口銭で

売り捌くように努めること。たとえ舟間の節のような品薄のときであっても、

余分の口銭を受け取ってはならないと戒めているのです。同じ主旨の家訓は、

毎年近江八幡の本宅へ届けられる「勘定目録帳」の末尾に家訓として記載され、

薄い口銭に徹することを毎年確認しています。

 湖西出身の小野権右衛門家には文政七年(一八二四)制定の「掟書」があり

ます。そのなかには、欲に迷って不実の商売に手を出して得た過分の金儲けは、

身上を潰すことになると警告し、高利と不実の商いを同列にとらえて、利に迷

うことの危うさを指摘した条文が含まれています。

 さらに、中井源左衛門家の家訓「中氏制要」は利益の正当性を論じて、「人生は勤むるにあり、勤むればすなわち乏しからず、勤むるは利の本なり、よく勤めておのずから得るは真の利なり」と表現し、まっとうに勤勉に働いて得た利益こそ、誰にも憚ることのない真の利であると述べています。

 

    三 家業永続と商いの手法

 努めて薄利と真の利益を重視して家産を築いた近江商人が次ぎに求めたものは、家業の永続でした。商家であれ、会社であれ、営利団体というものは、その手にする利益に正当性がなければ、モラルハザードを惹き起こし、存続の理由を失うということは、今昔を問いません。それは、近年の企業不祥事が明瞭に物語っているところであります。

取引において、売り手と買い手のみでなく、世間よしという第三者の目を意識した近江商人の卸商法は、商いの現場で実践され、成果を挙げました。

 創業三〇〇年を超える神崎郡金堂の外村与左衛門家(外与㈱)では、安政三年(一八五六)に「心得書」が作成されました。これは、問屋商売の要諦を達意の文章で示した家訓です。

先ず、取引の基本姿勢について、「目先当然の名聞に迷わず、遠き行末を平均に見越し、永世の義を貫き申すべきはからいなり」と宣言しています。経営は目先のことに右往左往せず、長期的平均に見ることが大事であり、人道を利益に優先させることを謳っているのです。

また、販売時の極意については、顧客の望みにまかせて売り惜しみせず、たとえ不利益であってもその時の相場で損得に迷わず売り渡すことであり、売る方が安売りを悔やむような取引をすることであると教え、「売りて悔やむ事」を極意として伝えようとしているのです。

この家訓を制定した当時の外村家は、近江商人番付のトップに位置づけられていました。その世評が妥当な評価であったことは、同家の純資産の研究からみても明らかであり、高い商道徳の保持が同家の隆盛の一因であったといえるでしょう。

 

   四 三方よしとCSRとの異同

新しい社会的責任経営としての現今CSRは、社会的価値と経済的価値の実現は一体のものであり、CSRに取り組むことは利益を生む投資と考えるべきであり、義務としての法令順守を超えた自主的取り組みであると主張します。

CSRは利益を生む投資であるとするとき、想定されている利益は、リスク低減やイノベーションによる差別化によって確保できるような直接的利益と、SRI(社会責任投資)を呼び込み、グローバル化への対応を可能とし、優秀な人材を惹きつけることによる間接的長期的利益の二つである。

近江商人の三方よしとCSRとを比較してみましょう。前者は世間よしを標榜し、後者は社会的価値の実現を説き、ともに事業活動には社会認識こそ重要であるという点で、時代を超えた類似性があります。

ただ、利益観には相違があります。近江商人の場合は、薄い利益を何代にもわたって積み重ねて、結果として強い企業体質を築いて、その系統は今日なお老舗企業群の一角を占めています。現今のCSRでは、CSRへの取り組みは直接的にも間接的にも積極的な利益獲得が可能であり、企業価値を高め、企業の持続的発展につながると主張します。
以上のような異同はあるものの、今後、日本企業が現今CSRに対する価値観を対外的に発信していく上で、近江商人の「三方よし」や薄利に徹して徳義を重んじた経営理念は、日本生え抜きのCSRとして十分に独自性を発揮できるといえるでしょう。

2012年7月30日月曜日


近江商人と近江鉄道―辛苦是経営 



 今となっては、近江鉄道を創ったのは西武であるとかなりの人々が思い込んでいるようです。本当は、旧彦根藩士が発議し、明治の近江商人の資力によってかろうじて建設されたのであり、創業期の労苦は、文字通り「辛苦是経営」そのものでした。近江鉄道の産みの苦しみを振り返ることは、忘れられようとしている先人達の貢献を掘り起こす契機になることでしょう。



 一 創立の事情

明治二六年一一月二九日、近江鉄道の創立願書が、滋賀県在住の発起人四四名から滋賀県庁をへて逓信大臣黒田清隆へ提出されました。創立願書によれば、同鉄道は蒲生・神崎・愛知の三郡を横断し、世上に名高い江州米などの物産の運送とともに、伊賀伊勢・濃尾・加越とつながる交通頻繁な江州南部の発展を期するものでした。鉄道敷設予定地は、東海道線彦根駅を起点として、高宮・愛知川・八日市・桜川・日野・水口をへて関西鉄道深川駅に連絡する予定でしたが、深川駅への接続は後に貴生川駅接続に変更されて完成しました。

創立願書に添付された起業目論見書によると、資本金一〇〇万円で二六マイルの鉄道建設を予定しています。収支計画は、乗客と貨物の運賃収入は一六万七九〇〇円、営業支出五万四七五〇円、差引純益は一一万三一五〇円と見積もっています。営業係数は実に三三%という、きわめて甘い収支計算でした。

二万株のうち、六一五〇株の発起株を引受けた四四人の発起人は、すべて鉄道建設予定地から出ています。彦根町からの発起人には石黒務・林好本・堀部久勝らの旧彦根藩士の名前が見られます。近江商人として知られた人々としては、彦根の前川善平、愛知郡小田苅の四代小林吟右衛門、蒲生郡日野町の中井源三郎・小谷新右衛門・西村市郎右衛門・正野玄三・高井作右衛門・岡宗一郎・鈴木忠右衛門・藤沢茂右衛門などです。

同年一二月二日、彦根楽々園で発起人総会が開かれ、創立委員長に林好本、副委員長に中井源三郎が選出され、仮免状取得の請願運動のための上京委員として、正副委員長に加えて四代小林吟右衛門が選ばれました。林は現職の彦根町長であり、中井源三郎は著名な近江商人中井源左衛門家の分家です。小林吟右衛門家は、屋号を丁子屋、通称丁吟と呼ばれ、三都に出店を構え、領民として彦根藩と密接な関係のあった豪商でした。

近江鉄道建設において主導権を握ったのは、旧彦根藩士でした。丁吟の東京店から小田苅の本宅に宛てた当時の書簡でも、鉄道設立の主唱者であり、実際の奔走者は、旧彦根藩士の西村捨三や大東義徹であったことを知ることができます。西村は内務省土木局長、大阪府知事、農商務省次官を退官後、二六年一一月から北海道炭鉱鉄道の社長であった人物であり、大東は滋賀県選出の衆議院議員であり、三一年に大隈内閣の司法大臣となりました。彼らの働きかけに応じて、丁吟をはじめとする沿線の近江商人が発起人に参加したのです。

二七年七月二六日に仮免状が下付されたが、日清戦争のため創立事務は中断され、二八年一一月に株式募集が行われました。戦後の株式ブームのなかで募集株に対して二四倍の申込みがあり、最終的に二万株、一一四〇人の株主が確定しました。株主構成は滋賀をトップに大阪・東京・京都と続き、この上位四府県で全株主の九五・八%を占め、全株数の九八・九%が集中しています。

二八年一二月二四日、京都有楽館で創業総会が開かれ、役員が選出されました。

社長   大東義徹(東京府・一〇〇株)

専務   林好本(滋賀県・二五〇株)

    中井源三郎(滋賀県・二〇〇株)

取締役  西村捨三(東京府・一〇〇株)

    小林吟右衛門(滋賀県・二〇〇株)

    今村清之助(東京府・一〇〇株)

    正野玄三(滋賀県・二〇〇株)

    臼井哲夫(東京府・一二〇株)

監査役  阿部市郎兵衛(大阪府・一〇〇株)

    岡橋治助(大阪府・一〇〇株)

    下郷伝平(滋賀県・一〇〇株)

経営陣に名前を連ねた近江商人としては、専務の中井、取締役の小林のほかに、感応丸の製造販売で有名な日野の正野玄三取締役に加えて、発起人に参加していなかった七代阿部市郎兵衛と下郷伝平が監査役に選出されているのが注目されます。後に三一年五月から近江鉄道社長となる阿部は、神崎郡能登川の出身で、麻布商から産をなし、大阪で米穀肥料商を中心に運輸業や化学工業に活躍していた巨商です。下郷伝平は、長浜の出身で、持下り商いを出発点とし、米穀肥料商から製糸会社や銀行の経営者となり、当時は貴族院議員でした。



二 鉄道建設と開業まで

二九年六月一六日付で本免状が交付され、近江鉄道株式会社は本格的な建設工事を開始しました。当初、全区間を同時に建設する予定で資材や車輌類も一斉に発注したのです。二九年度後半期には、大倉組大阪支店へ外国製の鉄軌一八マイルと鉄桁四六張、機関車三台等を発注しました。客車・貨車類は大阪の福岡鉄工場へ発注しています。

建設費は、日清戦争後の物価上昇のため膨張し、第一期工事の彦根―八日市間が開通した三一年九月には、建設費累計はすでにほぼ一〇〇万円に達していました。三四年一月九日に全通式が挙行された段階では約一七五万円となり、予算の二倍近くになりました。経費膨張の最大の要因は用地買収費であり、同社の資金繰りを支出面でもっとも圧迫したのです。

この間、予想を大幅に上回って増大する経費のため、近江鉄道重役会(取締役会)は窮地に立たされ、打開策をめぐる対立のうちに重役の総辞職となり、三一年一月三〇日に新重役が選出されました。

社長   正野玄三

取締役  大東義徹

〝    阿部市郎兵衛

〝    下郷伝平

〝    小林吟右衛門

〝    西村捨三

〝    岡橋治助

〝    鈴木忠右衛門

監査役  中村惣兵衛

〝    浜崎永三郎

〝    高田吉兵衛

大東社長が平取締役となり、専務の林・中井が退陣したが、新取締役の岡橋・鈴木は四~五月中に辞任し、下郷も死去しています。したがって、事実上の経営陣は正野・阿部(同年五月一四日から社長)・小林・西村と、同年四月二八日に取締役となる広野織蔵でした。広野家は旧彦根藩士族であり、文久二年生まれの織蔵は京都に遊学し、帰郷後は第百三十三国立銀行に入行しました。広野は、近江貯蓄銀行や彦根商業銀行の設立に関与して頭取や取締役に就任し、三一年当時は第百三十三国立銀行の頭取を務める県下銀行界の重鎮でした。

新重役会は株式払込の続行と銀行借入によって建設資金の調達をはかったが、八日市―深川間の第二期工事は全面的に銀行借入に依存せざるを得なかったのです。       

三二年四月九日、大阪の北浜銀行(常務、岩下清周)から五〇万円もの借入契約に成功しました。斡旋したのは、三〇年一〇月に大阪築港事務所長に就任していた西村捨三であったと思われます。取締役として名を連ねている西村・正野・広野・小林・阿部が、北浜銀行からの債務について会社の連帯保証人となることを諾約することによって、はじめてこの多額の融資は可能となりました。

三三年三月には、工事完成のためにさらに三〇万円の追加資金が必要になり、種々交渉の結果、八月になって百三十三銀行をはじめとする滋賀県内の主要銀行一〇行と大阪の近江銀行・第百三十銀行の支店の合計一二行から、北浜銀行の場合と同様に近江鉄道重役の連帯保証が決め手となって、借入の内諾を得ることができたのです。借入の形式は、約束手形の割引という短期の融資形式でした。

こうして近江鉄道は、三三年一二月現在、北浜銀行からの五〇万円の借入を中心に合計六一万五〇〇〇円の銀行借入を背負い込むことによって、三四年一月九日の全通式を迎えることができたのです。



三 鉄道経営の不振

全通後の近江鉄道の経営は不振でした。その状況を損益勘定によって検討してみることにします。営業収入は全通後の三四年度にはじめて一〇万円に達した後、三九年まで同じ水準に停滞しています。一方、営業費は上昇傾向にあったので、その分だけ益金は減少しているのです。営業収入に対する営業費の比率である営業係数は、全通後は六二%から七〇%に上昇しました。

近江鉄道を他の同規模の鉄道会社と比較しても、近江鉄道の営業係数は高いのです。それは、営業費のせいではなく、収入が他に比べて極端に低いためだったのです。三四年度の乗客数六〇万人・貨物四万トンという水準は一向に改善されず、七〇万人台に達するのは大正七年度です。その時点でも貨物は四万トン台にとどまっていました。



四 銀行借入金返済の苦悩

このような経営不振の状況下において、近江鉄道の借入金返済は行われなければならなかったのです。そのため、同社重役会は一〇〇万円(二万株)の優先株発行をはかり、三四年三月五日の株主臨時総会で承認されました。しかし、大阪では銀行取付け騒ぎが発生するなど、金融情勢は最悪だったので、現株主から募ろうとした優先株への応募者はほとんどいませんでした。北浜銀行で割引いた約束手形五〇万円の返済期限も四月三〇日に迫ったので、重役会はとりあえず優先株の重役引受を決議し、五月二〇日の第一回払込金による返済まで北浜銀行に差押を猶予してもらうことになって、ようやく危機を脱しました。

五月六日の重役会では、二万株の優先株のうち五〇〇〇株を応募株とし、残り一万五〇〇〇株は、阿部六〇〇〇株・小林六〇〇〇株・正野一五〇〇株・広野一〇〇〇株・西村五〇〇株の重役分担とすることを決議しました。なかでも名義を分散させている小林吟右衛門関係の株は計六三五〇株に達しています。

一回五円当りの優先株払込は、三四年五月一七日の第一回払込以後、三七年一〇月二八日まで一〇回に分割して払込が進められました。そのため三四年九月には六九万一二五〇円であった債務手形も徐々に減り、三七年下期には社債発行も加わって銀行借入が完済されたのです。この間、普通株の減資が行われ、一回目は三六年一〇月二一日に普通株一〇〇万円を五〇万円に半減し、二回目は普通株五〇万円を一〇万円に減資しました。こうして、優先株の分割払込と普通株の大幅減資によって近江鉄道は、巨額の銀行借入金と過大な資本金の縮小に成功したのです。

しかし、多額の優先株を引受け、恐慌と不況下にあって相次ぐ払込み要請に応えていかなければならなかった近江鉄道重役陣の苦悩は大きかったのです。重役陣のうち、当初の優先株を持ちこたえたのは四代小林吟右衛門と七代阿部市郎兵衛だけであり、他の重役はかなり手放しています。三七年下期の一三万円の社債発行でも、大部分は取締役が引受けることになり、阿部市郎兵衛亡き後(三五年三月死去)、吟右衛門は最多額の三万八七〇〇円を引受けています。

 多数の優先株を保持し続け、多額の社債をも引受けた吟右衛門の資金源泉は呉服太物の東京店からの送金であした。その資金を東京店は、日本銀行をはじめとする第百・東京・住友・第十五・興業の各有力銀行から借入れたのです。吟右衛門による莫大な近江鉄道投資は、丁吟の東京における銀行からの資金調達能力に支えられて可能となったのです。

 社債発行によって近江鉄道は銀行借入を完済し、吟右衛門は会社のために無限責任を分担する重圧から解放された後、三八年四月二七日の株主総会で取締役に再選されたが、同年八月一三日に死去しました。資金調達とその返済の苦心と苦悩は、近江鉄道の対外的信用を支えていた阿部と小林の命を削るものとなったのです。旧彦根藩士のなかでただ一人取締役として残留し、背後から会社を見守ってきた西村捨三は、同年病を得て、「辛苦是経営」の石碑を残して、辞職しました。



 主要参考文献 丁吟史研究会編『変革期の商人資本』・布施善治郎『現代滋賀県人物史』・末永國紀『近代近江商人経営史論』・滋賀県経済協会『近江商人事績写真帖』・滋賀県神崎郡教育会『近江神崎郡志稿』

2012年6月19日火曜日


後継者育成に尽くした女性―西谷善蔵の母


 全国を商圏とした近江商人は、行商先・出身地別の会員からなる商人団体を組織でしました。競争を避け、相互扶助を図り、権益を守るためです。

和歌山方面では若栄講、伊予松山には住吉講、北海道は両浜組(りょうはまぐみ)というように各地に商人団体を結成したのです。仙台・最上・福島地方に進出した近江八幡出身の商人たちの組織したものが恵美(えび)寿講(すこう)です。

 宝暦14年(明和元年、1764)の「恵美寿講帳」によれば、会員は、仙台の寺村与左衛門、福島の西谷善太郎、・西谷治左衛門・内池三十郎、山形の西川久左衛門・西谷善九郎・西谷権右衛門、(いわ)()国瀬上の内池与十郎、天童の内池宗十郎、福島の森亦三郎の10人でした。

 西谷善九郎家は、西谷善太郎家から寛文6年(1666)に分家して、福島と山形に「ヤマダイ」の家印をもつ西屋という屋号の出店をそれぞれ設けました。山形の繁華街である十日町にあった出店の店名は、西屋清兵衛と称するものです。

 西屋清兵衛の商売は、山形では上方の呉服を商いました。また、現地で仕入れた紅花・(ちょ)()(麻布の原料)・生糸などの商品を船で最上川を経て酒田に下し、さらに越中伏木(ふしき)・越前敦賀から八幡や京都へ送りました。諸国産物廻しの商法を採ったのです。

 兵庫県立歴史博物館の所蔵する「近江商人西谷家文書」には、西谷善九郎家の西谷善蔵が当主として初めて山形の出店に下向する際に、善蔵の母が与えた寛政元年(1789)作成の手紙が含まれています。表題は「店表(みせおもて)滞留の内、日夜心懸けの事」とあるので、若い当主として善蔵が出店に滞在している間に、日夜心掛けるべきことを教え諭した訓戒の書です。8カ条と後書きからなっています。



 第一条 朝起きに努めること。起ち居ふるまいは行儀好く、仮にも冗談がましいざれ言を言わず、身持ちを正しく守ること。大酒大食といった不養生をせず、とくに色欲をつつしむこと。当主としての自分のふるまいが、善悪ともに店の印象に反映することをわきまえること。

 第二条 朝から晩まで店に出て、家業見習いに努めること。同業の商人衆に対しては謙虚な態度で丁寧に応対し、その他の懇意先や出入りの衆にも同様の態度をとること。

 第三条 衣服や手回り品などの身に着けるものは、ぜいたく品を避けること。

普段の着衣は、夏冬ともに質素を旨とし、五節句などのハレの日に  青梅(じま)・越後帷子(かたびら)などの古いものを着るのは構わない。

 第四条 物見遊山は控えなければならないが、店商いの暇な時に、後見人や支配人の了解を得て、23回神社仏閣へ出かけたり、野山へ気晴らしに出かけたりするのは構わない。その際、かならず奉公人のお供を連れること。

 第五条 健康維持のため、店務多忙でも毎月2度は全店員が(きゅう)()を受けるようにすること。

第六条 家業に暇ができた時は、習字や算盤(そろばん)を稽古したり、聖人の書を取り 出したりして修養に努めること。

第七条 店員には慈悲の心で接すること。特に幼い店員に道に外れた行為が あれば密かに注意を加え、ささいなことであっても善行があればすぐに褒美をあたえること。また、年上の店員から若当主である自分に苦言を呈されたならば、早速聞きいれる素直さをもつこと。忠言は耳に逆らい、良薬は口に苦しというように何事も堪忍を専一にして、言葉遣いを柔和に保つことである。たとえ心に叶わないことがあっても、腹を立てたり、顔色に表したり、言葉を荒立てたりしてはならない。

第八条 店の内外の運営については万事を後見・支配人に任せて、口出しを しないこと。もし不行届きなことがあれば、後見・支配人に内々に伝え、後はその取り計らいにまかせること

後書き 今度の初めての出店への下向は、商用見習いによる店務上達が第一 目的である。店の経営に不備があっても、その場で善悪を指図せず見聞に徹し、本宅へ戻った後で相談役に図ってから改めて指令を出すことである。



 教諭の内容は、細やかで具体的です。若当主として修養を積むことを求め、店員への接し方から、店の運営、幹部店員との距離の取り方にまで及んでいます。店務に精通した当主となることを何より求めているのであり、年若い息子へ後継者としての資格を備えさせようとする情理を尽くした訓戒の書といえます。

2012年6月5日火曜日


山中兵右衛門家の承継と奉公人



近江国蒲生郡日野町大窪の山中兵右衛門家を興したのは、貞享2年(1685)生まれの初代兵右衛門です。実家は日野椀の塗物師の家であり、初代は33女の末っ子でした。

家業を継いだ商才に乏しい兄は倒産し、先祖伝来の居宅も手放すことになりました。この実家倒産の悲運に遭ったことが、初代を行商による失地回復へと向かわせるバネになったのです。宝永元年(170420歳の時、姉の婚家へ家運挽回の胸中を打ち明け、その支援を得ることに成功した初代は、婚家から日野椀2駄を借り受け、東国へ旅立つことによって商いの世界へ飛び込んだのです。

初代は駿河国沼津の旅籠屋伊勢屋善兵衛方を根拠地にして商いに励みました。善兵衛は初代の人柄を認めて、小田原藩領であった御厨郷(現・御殿場)での営業を勧めました。当時の御厨郷は、箱根関所の北方にあたり、沼津・三嶋から甲斐の郡内へ通じる岐路に位置する宿場町でした。

以来14年間にわたって、往路では日野椀を売り、復路では御厨郷の産物を仕入れて売る持下り商いに従事しました。仕入れ金を借りて商売を始めた初代は、経費を可能な限り節約する必要があったのです。ある時は茶店の代わりに辻の堂を利用し、喉の渇きを谷水で癒したと伝えられています。また旅費に窮した場合は、昼食の代わりに路傍の畑の大根を所望して空腹を満たしたことさえあったと伝えられています。

努力は実って、享保3年(1718)に御厨郷御殿場村に日野屋と称する初めての店舗を開くことができました。取扱い商品は、食料品から小間物や日用品であり、万屋的商法によって、わずかな利益を積み重ねていきました。初代は寛保年間(174143)に人手に渡った居宅を買い戻し、延享2年(1745)に家督を長男の二代目兵右衛門に譲って隠居しました。没年は安永3年(1774)、享年90

二代目兵右衛門は、享保10年(1725)に生まれました。御殿場店は隆盛となり、近隣の村々と卸・小売りの方法を巡って争いを惹き起こすほどに成長し、明和7年(1770)には沼津店を新設しました。安永6年(17770)に三代目に家督を譲って隠居し、文化2年(1805)に81歳で没した二代目は、著名な家訓を制定しています。78歳となった享和2年(1802)に作られた、10カ条からなる「慎」です。

この家訓の特徴は、半分の5カ条が商いの手法について説かれていることでしょう。不実の商いを慎むことを求めた5カ条の内容は以下の通りです。



・店の仕入品は、よく吟味し、確実な品質の品を売買すること。不正な品や粗末な商品を取り扱ってはならない。また一挙に高利を望んではならない。

・得意先に対しては、誠心誠意をもって確実な商品を届けること

・子供などは小さな得意先だからこそ、却ってこれを大事に扱うこと

・外見の見てくればかりを飾るような派手な商いは不要であり、堅実な商いを心掛けること

・市価の変動を見越して実物の受け渡しをしないで決済したり、思惑取引したりなどは、全く無用な仕法である



二代目の長男の三代目は、宝暦8年(1758)に出生しました。家督相続後は積極経営を進め、御殿場の近傍に2店の酒造店を開いています。また、御殿場出店100周年を記念して、小田原藩へ50両上納して2人扶持を与えられました。50歳で中風を発病したが、後継者の息子が幼かったため、当主の地位に座り続けざるを得ませんでした。没年は文政8年(1825)、享年68

 これまで順調であった山中家の承継に問題が生じるのは四代目からです。四代目は文化2年(1805)に生まれ、3人の兄が夭折したため、21歳で家督を相続しました。商家の当主としての十分な訓練と経験を積むことなく、14000両余の純資産を相続することになった四代目は家業に身を入れなかったのです。そのため、相続後間もない文政12年に、店支配人を始めとする奉公人一同から厳しい弾劾を含む「恐れながら申し上げ奉り候」という要望書を受け取る羽目になりました。

 爪印を押した要望書の中身は、当主が家業に一向に精励しないので案じていたところ、さらに家の利害にかかわるような不埒の身持ちが明らかとなった、この上は、周囲の忠告を聴き入れて改心してもらうならば店一同安心するが、聞き入れられなければ奉公を続けられないので、奉公人全員退店の覚悟である、よって要望を受け入れてもらいたいというものでした。

 四代目は全面的に要望を受け入れ、誓約書を作成しました。しかし四代目は、当主の自覚に乏しい所業を繰り返したのです。以後、山中家は幼弱な当主が続き、家督相続は三代にわたって齟齬をきたしました。山中家が明治中期に立ち直るまで家業を維持できたのは、出店収益の25%を奉公人に配分する主法制度の導入などによる、主家と奉公人の間柄が所有と経営の分離関係にあったからであるといえるでしょう。