2012年3月17日土曜日

W.M.ヴォーリズの「三方よし」人生
                              末永國紀
ウィリアム・メレル・ヴォーリズという人は、近江八幡を拠点にキリスト教の伝道に生涯をかけ、ついに日本に帰化した、どの教会にも属さない自主独立のアメリカ出身の宣教師です。同時に、日本の近代建築に大きな足跡を遺した建築家であり、塗り薬メンソレータムの代理販売業を営む実業家でもあり、音楽・詩作・絵画に深い趣味を持つ教養人でした。風貌は、日本人のイメージする西洋人にピッタリ符合し、しかも品格があります。
 これらの多面的な才能は、バラバラではなく、伝道活動を中心にヴォーリズのなかで関連付けられ、見事に統一されていました。伝道者としては、実に理想の人生であったといえます。
 それなのに、彼の自叙伝のタイトルは、『失敗者の自叙伝』となっています。彼ほどの深い信仰をもつ人が、表面的な意味で自分の人生を振り返って、「失敗」だったと表現するはずはありません。その疑問は、この自叙伝を読んで、表題に込められた「失敗」の含意は、神に見守られ、その次にもっと旨くいくために神が与えた試練であった、ということが判って氷解しました。
 伝道という一本の糸に貫かれながら、多面的な才能を開花させたマルチ人間ヴォーリズの芽は、すでにその青少年期に育まれていたといえます。ヴォーリズは、一八八〇年(明治一二)一〇月二八日にアメリカのカンザス州レブンワースで、キリスト教会の仕事を通じて結ばれた両親の長男に生まれました。母親は、ヴォーリズを妊娠しているとき、将来宣教師として外国伝道に献身してくれることを祈っていたそうです。
 父親は、商業学校出身のビジネスマンであり、長年教会の会計係を勤め、赤字を黙って補填するようなもの静かな人物でした。家庭では、毎夜読書の時間をもうけ、子供達に文学作品を音読してやり、大きな感化を与えました。
ヴォーリズは、四歳の頃から従姉の影響で音楽に慣れ親しんでいました。また、鉛筆を持てば一時間以上も一人で絵を画いているような子供だったそうです。
彼は、幼い頃から自分で小遣いを稼いでいました。小学校高学年のときには、早くも教会のオルガニストとして俸給をもらい、教材本の訪問販売を経験し、その後も文書整理箱の販売で抜群の才能を発揮し、高等学校時代は新聞配達係、コロラド大学生としては食堂の給仕や家庭教師等の様々なアルバイトに従事しました。とくに、大学の最後の二年間の学費と生活の完全な自給経験は、近江八幡での自主独立の伝道にとって貴重な体験となりました。
コロラド大在学中にヴォーリズは、一九〇二年(明治三五)カナダのトロントで開催された学生伝道隊の大会に出席して霊感を受け、外国伝道を志願します。その目的は、「今まで宣教師の行ったことのない、今後も外国伝道団が手をつけそうもないような所へ行って、独立自給で神の国の細胞を作ってみたい」というところにありました。そうして選ばれたのが、パレスチナのガリラヤ丘陵に位置するナザレにたとえられた近江八幡だったのです。
ヴォーリズは大学を卒業し、一九〇五年に一九日かけて太平洋を渡り、二月二日に近江八幡の滋賀県立商業学校教師として赴任しました。赴任直後から独立自給の伝道活動を開始し、一九〇七年に伝道活動を理由に解職されたときには、二年間で三一人の受洗者を獲得していました。彼は、この成功に感激しています。なぜなら、他の宣教師によって当時の滋賀県は保守的で、受洗者など思いもよらない福音宣教の不毛地とみなされていたからです。
ヴォーリズが、自身でさえ予期せぬ伝道成果をあげ得た理由の一つは、生徒とあまり年齢差のない若き教師として、近江八幡へ永住の決意で赴任したことが大きかったと思います。もう一つは、実際に住んでみて、琵琶湖を抱えた近江八幡の美しい風景に愛着をもつようになったこともあるでしょう。
教師解職直後から、内外からの物質的精神的援助が寄せられ、とくに建築の仕事では名古屋・神戸・京都・長崎・東京や北海道からまで注文が来るようになりました。一九一〇年の欧州旅行では、メンソレータム社の創設者A・A・ハイドに出会う機会を得ました。近江ミッション(近江兄弟社)のための揺るぎない経済的基盤ができたのです。
一九一九(大正八年)には華族の一柳満喜子と結婚し、個人的にも安定した家庭を営むようになりました。
太平洋戦争中は、言い難い苦難の生活だった思います。しかし、八三歳の生涯を通してみると、天職といえる使命感に燃えた仕事に従事し、気に入った風光明媚の土地に住み、好伴侶を得て、充実した人生であったといえるでしょう。いうなれば、「失敗」の積み重ねで築かれた「三方よし」人生だったと思います。

2012年3月11日日曜日

去年、416日に書いた「大震災に寄せて―今こそ“希望”を」を、近江商人ブログの番外編としてここに採録します。事態は1年前とほとんど変わっていないからです。 

番外編:  大震災に寄せて ― 今こそ“希望”を
2011311日、現存の誰も経験したことのない数百年単位でしか突発しない大震災が発生してしまった。どんな言葉や表現よりも、TVの画像が自然の暴虐(ぼうぎゃく)の威力を眼前に繰り返し見せつけた。
 地震と津波と原発事故が重なるという明らかな非常事態である。地震と津波は天災としても、原発事故と数十万人の被災者への対応は、もはや人災と呼ぶほかはない状況に陥っているといわざるを得ない。
 被災後1カ月を過ぎても、震災関連の法案は1本も国会に提出さえされていない。原子力発電にも放射能にも素人である政府首脳が、事態悪化の追認を繰り返した挙句に、「計画避難」という生活の根拠をくつがえすような避難指示を、何の対策もないまま出している。
 他方、原発事故の当事者であり、コストカット(経費節減)で上りつめた文系社長を戴く東京電力は、漁業への影響も海外の反響も考慮することなく、中古タンカーによる処理案も一蹴して、通告する前に放射能汚染水を海に放出する始末である。
 政府にせよ、企業にせよ、これほどまでに愚劣なトップが居座り続けることの災厄は、これからの復興にとって深刻な障害となることは誰の目にも明らかであろう。例えば、首相の肝いりで発足した、政治学者を議長とする復興構想会議の議論である。初会合でさっそく提起されたのは、震災復興税という増税案であった。平時でさえ難しい提案を、いまだ被災者の生活の展望も拓けない非常時に、構想もなしに不用意に持ち出す安直な対応には、ハナから失望せざるを得ない。
 その場しのぎの、継ぎはぎだらけの言動をする人間と思われてしまっては、政治も復興もない。真に復興に手をつけられるのは、もはや国民の信を得た政治のみである。一丸となって再生に取り組む体制の構築こそ急務である。
とはいえ、日々の生活は待ったなしである。突然の大震災によって理不尽に命を奪われた人の無念さは察するに余りあるが、身をもって逃れ、危うく命を全うできた人々にも生活の再建を図る苦難が待ち受けている。
家も庭も全てを津波に流され、かろうじて見つけた桜の幹の断片を手にした若い父親が、「毎年、この桜の下で花見をしていました。今から思えば本当に夢のような日々でした」と語っていた光景が忘れ難い。人間の生活は本来無常であり、明日の分からない危ういものであることをあらためて実感させる映像であった。
 もちろん、この日本列島には昔から天災地変が幾度も繰り返された。過酷で甚大な被災を受けた場合、人々はどのような心情と覚悟で日々を送ろうとしたのであろうか。
 そのような時に想い出されるのは、二宮(にのみや)(そん)(とく)のことである。尊徳の幼名は金次郎。金次郎は、小学校の校庭に建てられた、(たきぎ)を背負って歩きながら読書する像によって知られている。金次郎は、天明7年(1787)に相模(さがみ)国(神奈川県)の農家に生まれ、後に尊徳と名乗った江戸後期の農村復興運動の指導者である。
 没落した自家を勤倹力行に努めて再興した。具体的には、人並みすぐれた体力を活かして厳しい労働に耐え、年貢の掛からない荒地を耕作して得た稼ぎは、田畑を買い求めたり貸金に回したりして回転させた。
26歳で武家の若党(わかとう)(従者)となって主家の財政を立て直したのをきっかけに、荒廃した関東農村の再建を求められ、転居を繰り返しながら復興に奔走する生涯を送った。没年は安政3年(1856)、享年70
 尊徳の時代は、歴史的な大きな災害はなかったとはいえ、それでも悲惨な天保の飢饉(ききん)は発生している。自然の暴威に備える手段の乏しかった当時、農村復興に命を懸けていた尊徳の心情は、次の歌によってうかがわれる。

  この秋は雨か嵐か知らねども
      今日の務めに田の草を取る

 西洋にも似たような表現がある。「たとえ明日地球が滅ぼうとも、今日リンゴの木を植えるだろう」という意味の言葉である。
尊徳の「今日の努め」の歌、西洋の「リンゴの木」という表現は、不確定な未来に何が起きようとも、人間は創造的活動から離れることはできないという意味で、ともに希望を語っているとも解されよう。被災者や被災地、そして日本全体に向けて今こそ届けられなければならないもの、それは“希望”である。(2011.4.16記)

2012年3月8日木曜日

経営は生き物、二代目塚本定右衛門の格言

商家の経営姿勢を重視した二代目塚本定右衛門定次は、63歳となった明治211888)年518日に、次のように述懐しています。

 一 (前略)人を(あざ)むき短尺無幅等の物品など用ゆべからず、只潜心(せんしん)留意実地の商業大切にして長久を計るべし、投機商類似を羨むべからず、目下の利を見るも損また大ひなり、物の盛なるは衰ひやすく、商家の極意は信用を重んじ内外の好評を得るにあり(後略)

このなかで定次が、商いで大事なこととして諭していることは、短尺物や無幅
物などの人を欺くような欠陥商品を取り扱わないことであり、地道な商売を行うことに専心し、家業の永続を図ることです。投機商人のようなやり方は、たとえ一時の利得を得ることがあっても、損失もまた大きいものである。商家の極意は、信用を重んじて内外の好評を得ることにこそある、と説いています。
ここには、不正な利得を忌み、(おご)ることなく正路の商いによって、家業永続
をはかることをもとめた経営姿勢が打ち出されているのであり、利益と商いの手法は、不可分のものとしてとらえられていることのよく分かる一文となっています。
 定次は、このように正しい商いをするべきであると説く一方において、他方
では正しい商いをしていてもどうにもならなくなる場合のあることもよく(わきま)
えていました。そのことを明治2年の「家内申合書」のなかでも、「窮して心を
動かさず」と題して次のように述べています。

 すべて物事手堅く致し候とも、思ひの外なる損失来る事あるものに候、古今の歴史に(かんが)みて知るべし、いかなる因によるか、いかなる縁によりてか、道を守る善人も窮する事のあるも世の習ひに候へば、その不仕合(ふしあわ)せの重なりし時におよびても、常々の心を乱すべからず、必ず道に背き規則を越えるなどの事あるまじく候、投機商類似を羨むべからず、一時に利得を得んとしてかえって損失を招く事あり、深く恐るべし

 右の文意は、以下のように解釈されるでしょう。すべての事柄を手堅く堅実に運ぶような人であっても、思いがけない損失に見舞われることはあるものである。それは古今の歴史を振り返ってみれば、いくらでも例のあることである。どのような因縁によるのか、いかなる理由にもとづくのか、はっきりとは分からないが、きちんと人の道を守って生活しているような善人であっても、時によって行き詰まり苦しむことがあるのは、人の世の常である。
たとえ不孝な巡り会わせが重なることがあっても、動揺して平常心を失い、
自棄になって人の道に背いたり規則を破ったりといったような、心の闇に迷うことがあってはならない。一挙に儲けて形勢を逆転しようと、投機商のような行為に走っても、却って損失を大にするだけである、と諭しています。
それでは、思いもよらない不運に出遭って窮地に追い詰められたときは、ど
のように対処したらよいというのでしょうか。この点についても、定次は前文に続けて周到に次のように述べています。

 我が身を慎み、諸事を(つづまやか)かにし、ますます家穡(かしょく)をつとむべし、しかれば家内和合して天道に合い、気運徐々に開くべし、永久の心得を相続する人、この理りを知るべし

 不運が重なり、悲運一身に集まるような場合は、自分の身を包み引き締め、
言動を控えめにし、生活を内輪に質素にするように努め、家業に専心すること
である。そうすれば、家内は和合して天道にも適い、やがて形勢も好転するで
あろう。人生の極意を得ようとする人は、この道理をよく弁えることが大事で
ある、というのです。
 定次は、商いにおいては常に内外の情勢の観察をおこたらず、時勢に遅れな
いように昼も夜も工夫が必要であることを力説して、この一文を結んでいます。
ここにおいて、定次の根底には、経営は生き物であるという確固とした認識
があっての格言であったことが知られるのです。