2012年5月2日水曜日

野田六左衛門家の系譜と押込め隠居

 野田六左衛門家の初代金平は、蒲生郡野田村の農家の次男として享保8年(1723)に生まれました。12歳で同郡松尾山村の高井作右衛門の上野国藤岡の出店に奉公に入り、宝暦3年(1753)に31歳で別家独立し、50両を元手金にして中山道板鼻宿(現、群馬県安中市)に酒造業を開きました。出店の屋号は十一屋六左衛門といいました。
 板鼻宿は碓氷(うすい)(がわ)の左岸に位置し、しばしば川留があったので、宿場町として繁昌した。本陣と脇本陣があり、旅籠や茶店が60軒余もありました。幕末には和宮も宿泊しています。
 碓氷川の清流を利用した造酒は、芳醇の美酒の評判を呼び、同郷の藤崎宗兵衛のアドヴァイスと援助もあって商運は上昇しました。
 47歳で没した初代は、恩人の高井作右衛門と藤崎宗兵衛に跡式の世話を頼んだ遺言を書いています。そのなかの一か条では、妻「みち」の身の振り方について次のように述べています。
 「おみち儀は、この方にてごけ立て候はば」として、婚家にとどまって後家を通すならば生計費に176両を与え、実家へ戻るならば50両を付けて帰す。どちらを選ぶにせよ、「おみち儀は心のままに成され下さるべく候」と、「みち」自身の判断にゆだねることにしています。妻への配慮の行き届いた措置といえるでしょう。
 二代目金平は、初代の娘「そえ」に迎えた同郷の今堀村出身の養子です。板鼻宿の代官による寛政6年(1794)の出店の商売向きについての尋問について二代目は、取扱品は造酒・荒物・雑穀であり、商い高は年間500600両であると答えています。板鼻宿出店の実際の純資産はすでに2000両を超えていたことは勘定帳の分析で判明しているので、三分の一以上の過少申告です。二代目の時代には、高崎藩や安中藩といった近隣の諸藩に貸付もおこなっているので、外来商人としてすでに目立つ存在になっていたことが分かります。二代目は文化10年(1813)に65歳で没しました。
 二代目の子供は姉妹のみであり男子がいなかったので、二代目の甥を養子に迎えて姉娘に添わせ、三代目としました。姉娘は長男専太郎を生んで没したので、三代目は妹娘を後妻に娶り、次男金治郎と娘二人を得ました。
 三代目の時代の大きな出来事は、板鼻宿出店の釜屋からの失火によって酒蔵を残らず焼失したことです。火災は、文政5年正月11日昼四つ時に発生。板鼻宿の領主は、焼失による痛手をこうむった三代目を本陣へ呼び出し、地元有力者の立会いのもとで、出店を再築して営業を続けるようにと慰留しています。
被災をきっかけにして、野田家が出店を引き払うのではないかと危惧されていたのです。このことは、野田家の板鼻宿出店がすでに地域に根を張り、地元に不可欠の存在に成長していたことを物語っているといえます。
三代目は56歳で没する前年、文政10年(1827)に遺言を書きました。これが、明治になってから改めて家訓として制定された「家訓 家事改革秘書」というものです。
内容は、商家の主人としての自覚をうながす全文50か条の教戒の書といえます。世間の豪家や富家の盛衰は、一に主人の行状に懸かっているとして、質素倹約による家業精励を説いています。とくに先祖から家業を受け継いだとしても、当初は借り物と思い、主人役が立派に務まっていると傍からみなされるように努めることと述べ、誰しも最初から主人役が務まるものではないとして、努力による主人の座への到達をうながしている点が注目されます。
冒頭には、私欲のために家産を蕩尽するようになる心の隙や緩みを警戒した一文を挙げています。すなわち、継承した家産は豊かにあるものと思い込み、どんな振舞いをしようと誰からも制御されず、恐れる人もいないとの考えから油断が生じる。そうなると家産を自分ひとりのものと勘違いして、私用のために少々減らしても家業に差し支えることもあるまいと独り合点するようになる。そして、せっかく富家に生まれ合わせたのだから人生を楽しんで暮そうとする魂胆が気の緩みとなって古格家法を破り、没落していくことになると警告しています。
三代目の実子である専太郎は四代目金平を継いだのですが、後に父親の危惧したとおりの行状によって家産を蕩尽し、ついに押込め隠居に処されてしまいました。家業を建て直したのは、弘化3年(1846)に兄の後を継ぎ、五代目金平となった異母弟の金治郎です。五代目金平以降、当主は野田六左衛門を名乗るようになり、近代の隆盛を迎えました。
板鼻宿出店は平成7年に閉店しましたが、現在の野田家は八代目が兵庫県西宮市で今津酒造会社を経営しています。