初代伊藤忠兵衛の大阪贔屓と京都嫌い
初代伊藤忠兵衛(1842~1903)にとって、明治5年(1872)の大阪開店は、個人的には一代の大勝負であったが、全体的な時代の流れで見ると、大阪を目指した多くの近江商人団の一員としての進出、という側面を持っていた。しかも、気取らず、本音で語り、迅速を尊ぶ大阪の土地柄は、生誕した村の江州弁をもって終始するような真率で気の早い自然人であった忠兵衛にとって、気質的にも馴染みやすい所であった。
近世の大阪は、摂津の平野・堺・八尾・城州八幡・伏見・近江等の周辺地域から集まってきた人々によって作られた城下町なので、氏素性は重視されない傾向にあった。さらに、城下町というにもかかわらず、上町台地の北部に位置する大坂城周辺は街の中心地ではなく、都心は町人居住地の船場にあった。したがって、町の雰囲気には17世紀後半の大坂で活躍した俳人小西来山が、「お奉行の名さへ覚へずとし暮れぬ」、と詠んだような伸びやかさがあった。
反対に忠兵衛は、大の京都嫌いであった。御所を中心に発展した伝統の街であるだけに氏系図や老舗が重視され、本音と建前を巧みに使い分け、外来者への警戒心の強い京都に強く反撥した。
それは紅を店印とする伊藤京店が、四条室町下ルに移転新築した際のエピソードからもうかがえる。移転新築を決行する前に、室町蛸薬師下ルの旧店舗地で新築しようとしたが、大工の不注意から小火を起こしてしまい、隣家の主人から苦情が出た。その口上は、
「大体紅さんはお店の人が若過ぎる、あんな人に任せてゐると自然火事も起るし、吾々は心配でたまらぬ」
というものであった。当主の忠兵衛自身による陳謝にもかかわらず、失火の原因を店員の若さに帰してとがめられたことに立腹した忠兵衛は、その場で店舗の移転新築を決断したのである。忠兵衛は、京都の他に比類のない工芸の技術力を認めて京店を設置したものの、京都とは肌が合わなかった。
新参者の忠兵衛を容れる包容力は、京都よりも大阪の方がはるかに大きかったのである。息子の二代目忠兵衛は、父初代忠兵衛の大阪贔屓を次のように述べている。
父が如何に大阪を高く評価し、期待したか、仕事や交友は申すに及ばず、夏の火の見櫓暮しから川涼み、夜店、植木市、さては十日戎の雑踏にまで揉まれに行く。第二の故郷と言ふよりも大阪が日本中の力を持ってをる様に惚れ込み、また働きよかった様である。
働き易い仕事場を提供した大阪への、忠兵衛の深い愛着と懐かしみの伝わる思い出話である。店員の懐旧談にも、店総出の夏の涼み船の話が出てくるので、主従ともども大阪の風物詩を愉しんだのである。