2012年4月21日土曜日

釜屋小森久左衛門家の歴代とお助け普請

関東平野は雄大です。その真ん中に位置する埼玉県東部の現地に立つと、その広さを実感できます。北西に上毛(じょうもう)三山という、群馬県の名山がかすかに遠望できるだけであり、あとは一面の平野。そのなかを荒川と利根川の二大水系がゆったりと流れている。関東平野というよりも、「坂東(ばんどう)」という語感がピッタリくるような風景で
この平野部に、近江商人、なかでも蒲生郡日野を出身地とする行商人の姿が見られるようになるのは、江戸中期の18世紀半ば頃からのことです。(もち)(くだ)り商いという行商で成功すると、要地を選んで出店を構え、彼らの多くは二大水系に沿って醸造業を営。中井源左衛門・矢野新右衛門・矢尾喜兵衛・鈴木忠右衛門・横田庄右衛門・島崎利兵衛などそう
 埼玉県騎西(きさい)町(現、加須市)にある酒造業㈱釜屋の初代小森新八もその一人で。新八は、蒲生郡日野町大谷の農家の次男として生れ寛延年間(174850)に持下り商いを開始し、中山道を経由して関東との間を往復しました。
宝暦5年(1755)に利根川水系の武蔵国北埼玉郡騎西町の町場に釜屋新八の屋号で出店を開き、水油・陶器・鍋釜・質屋を商ったのです。しかし新八は、明和2年(1765)に病死しました。いまだ独身であったので、兄の久左衛門が近江から駆けつけて葬儀を営み、騎西の淨楽寺に葬りました。
弟の跡式を調べた久左衛門は、自ら二代目として経営を引き継ぐことにしました。明和5年に隣村の金兵衛から酒造場を5年間の契約で借り受け、酒造業を開始したのです。借料は1年に付き52分でした。翌年には、その3石の酒造株とともに、酒造場と酒造道具一式を32両で買い取りました。越後(えちご)杜氏(とうじ)による酒造業は順調に発展し、「力士」と命名された酒は、天明5年(1785)には酒造978石に達するほどに成長したのをみても、二代目は商才があったといえます。天明6年に隠居し、享和元年(1801)に76歳で没しました。
三代目は、宝暦11年(1761)に日野町大谷の木瀬利右衛門の次男に生れ、天明5年(1785)に二代目小森久左衛門の養子となりました。三代目は、享和2年に行田(ぎょうだ)町の与右衛門から酒造場を10年契約で借り入れて出店とし、関東の紅花を京都に上せる紅花商を開始するなど、家運の繁栄に貢献しました。没年は文政7年(1824)、享年64.
子を亡くした三代目は、日野町木瀬忠右衛門の次男を養子に迎え、四代目久左衛門としました。四代目は、生来温厚にして利発であり、文人的素質に優れ、書道や茶道で頭角を現し、琴斎とも号する教養人でした。商売においても、天保4年(1833)に質部門を廃止し、醤油醸造業をはじめるなど商才を発揮しました。
しかし、好事魔多しという出来事が生じ、天保5219日に騎西町のほとんどを焼き尽くす火災に類焼したのです。釜屋は酒造庫1棟を残して店舗・倉庫・家財を焼失してしまいました。再建に苦心を重ねた四代目でしたが、復興資金の欠乏におちいり、やむなく名主善兵衛を介して土地の代官所に資金融通を歎願し、御用達金300両の下付を受けることに成功しました。
外来商人に対するものとしては稀有な待遇でした。このことは、釜屋が当時すでに地域にとって不可欠の存在となっていたことを物語っているといえます。それは例えば、寛政13年(1801)春の騎西町の火災の罹災者10人が、釜屋に30両の助成金を要請したり、年不詳ながら地元の町場の生活難渋者に釜屋が助成金として金63分と銭73600文を名主新井善兵衛に渡したりした文書が残っていることからもいえることです。
店の再建を果した四代目は、天保812月に忍藩領の伊勢国三重郡大屋知村(現、四日市市)に酒造場を開いて出店とし、西沢源右衛門を支配人にして経営にあたらせるなど事業を拡張しました。四代目は天保129月に57歳で没。
後を継いだ五代目は、安政6年(1859)に45歳で若死にしたので、嘉永2年(1849)に日野町大谷に生まれた六代目が叔父栄治郎の後見を得て、後継しました。慶応3年(18676月に京都大宮通り仏光寺で酒造業を買い取り、近江屋新兵衛と称しました。
商売にとって困難な時期である幕末維新期を乗り切った釜屋は、明治19年(1886)に一大貯酒庫の建設にとりかかりました。それは、明治14年にはじまり5年間におよぶ松方デフレ政策による深刻な不況の影響が強く残っていた時代のことです。米麦・養蚕地帯であった騎西地方は、農産物の下落によって大打撃を受けていました。
釜屋は219日の地鎮祭の余興に、東京相撲の大関大達羽左衛門を招いて土俵入りを開催して近隣の人々の娯楽に供しました。総ケヤキ造り、二階建て、建坪200坪の貯酒庫は64日に棟上げを迎え、大工などの工事関係者の雇用は51人に上り、祝いの祝儀として配った米銭は、103人におよびました。不況時の起工であったため、難民救済の一助となり、この建築工事は、「釜屋のお助け普請」と呼ばれ、社会貢献として長く称えられるものとなりました。

2012年4月10日火曜日

陽徳から陰徳へ、塚本定次・正之兄弟の治山治水事業

 晩年の勝海舟の語録を集めた『氷川(ひかわ)清話(せいわ)』は、日本史上の著名人についての遠慮のない人物論を含んでいす。そのなかでは、近江商人と芭蕉の関係についても言及とくに、海舟と交流のあった近江商人の塚本定右衛門定次と弟の正之のことが次のように紹介されてい
海舟は、山林熱心家の定次とその弟正之は滋賀県下の山林のためにといって県庁に2万円ほどの資金を預けているという話をした後、海舟に語ったという定次の次のような言葉をそのまま記しているのです。

この二万円がなくなる時分には、山林も大分繁殖して参りましょう。だが、私はとてもそれを見ることは出来ますまい。しかしながら、天下の公益でさえあったら、たとえ自分が一生のうちに見ることが出来ないといっても、その辺は少しも構いません。私は今から五十年先の仕事をしておく積りです

 この言葉を聞いた海舟は、「なかなか大きな考えではないか。斯様(かよう)な人が、今日の世の
中に幾人あろうか。日本人もいま少し公共心というものを養成しなければ、東洋の英国な
どと気取っていた所で、その実はなかなか見ることは出来まいよ。」と、賛嘆していま
す。同時代人に対しては、辛らつな批評の多い海舟であるだけに、珍しい記述として注意
を引くのです。
 海舟に褒められた定次・正之兄弟の滋賀県内の治山治水事業への寄付行為は、史料とし
て残っていて、きちんと跡付けることができるものです。例えば、明27年(1894)から
40年にかけておこなわれた琵琶湖へ流入する河川に築
かれた堰堤(えんてい)や植林事業は、滋賀県庁と連帯しておこなわれ、湖東・湖西・湖南・湖北の全
県下におよんでいます。 その総面積2605326歩の工事費は、57056円に上りま
した。県費と塚本家の出資割合は、21であり、塚本家は19000円余を負担したの
です。伊吹山麓の三谷尻川の土砂扞止(かんし)工事の恩恵を受けた東浅井郡七尾村
相撲庭(すまいにわ)(現、長浜市)には、村民による塚本兄弟の顕彰碑が静かに建っていて、海舟が語
った塚本兄弟の話は、事実にピタリと符合します。
 また、塚本家による治山治水事業には、山梨県東山梨郡三富村(現、山梨市)での植林
事業があります。植林のおこなわれた山を山梨県は「塚本山」と命名しました。それに
は、以下のような事情があったのです。
 山梨県下では、明治408月の豪雨によって笛吹川などの河川が氾濫し、2万戸が流出
し、浸水家屋も15000戸を超える被害をうけました。さらに同43年の8月にも再び豪雨に
よって、甲府市では市内の三分の一が浸水被害をうけたのです。この水害の後の県民の要
望に応えて、明治44年に皇室林30万町歩が洪水対策として山梨県に下賜されました。この
年、甲府店創業100年目に相当した塚本一統は、父祖の地の水害に心を痛め、塚本合名会
社の名前で山梨県へ、植樹費用として当時としては前例のない多額の1万円を寄付しまし
た。
 山梨県は、この寄付金を明治天皇から下賜された県有林の植樹費用にあてることにし、
その県有林の笛吹川上流一帯を「塚本山」と名付けたのです。大正2年(1913)からはじ
まった植林では、桧・杉・唐松が植えられ、同4年に完了しました。この間、塚本家当主の
三代目定右衛門定治は、現場に足を運び、笛吹川河岸の神社で工事の無事を祈ったという
ことです。
 その後、山梨県は「塚本山」の保育作業を続け、昭和27年(1952)の調査によると総蓄積32370立法メートルの立派な森林に成長しました。現在は、三面に節のない優良材が採れるまでになっていて、大型ヘリコプターを使って搬出されています。
 植林から100年以上を経た現地の森林には、塚本家の顕彰碑がひっそりと建っています。陽徳として、はじめはよく知られた美挙も、年月とともに誰も知らない陰徳に転じていくことの一例です。塚本兄弟は、海舟に語った言葉の真実を身をもって実現したといえるでしょう。
 定次は、明治3331日に(したた)めた「遺言書」のなかで、陰徳善事仕方についても、慎重ようふれてい

神社仏閣や学校教育などの慈善事業へ適当に出金するのは構わないが、その方法については当主、同族、相談役が慎重に協議して諮ること。慈善事業は、単に金を出せばよい、といものではなく、一族の繁栄と家業の永続のための祈祷と心得なければならないからである。事業に成功して富を得たとしても、支えてくれた人々への恵の心がなければ、長続きしないものである。長久に栄えるためには、陰徳善事によってその徳を施すにかぎるということは、天地の道理であり、古今の歴史に例は多い。このことをよく弁えておくこと。

2012年3月17日土曜日

W.M.ヴォーリズの「三方よし」人生
                              末永國紀
ウィリアム・メレル・ヴォーリズという人は、近江八幡を拠点にキリスト教の伝道に生涯をかけ、ついに日本に帰化した、どの教会にも属さない自主独立のアメリカ出身の宣教師です。同時に、日本の近代建築に大きな足跡を遺した建築家であり、塗り薬メンソレータムの代理販売業を営む実業家でもあり、音楽・詩作・絵画に深い趣味を持つ教養人でした。風貌は、日本人のイメージする西洋人にピッタリ符合し、しかも品格があります。
 これらの多面的な才能は、バラバラではなく、伝道活動を中心にヴォーリズのなかで関連付けられ、見事に統一されていました。伝道者としては、実に理想の人生であったといえます。
 それなのに、彼の自叙伝のタイトルは、『失敗者の自叙伝』となっています。彼ほどの深い信仰をもつ人が、表面的な意味で自分の人生を振り返って、「失敗」だったと表現するはずはありません。その疑問は、この自叙伝を読んで、表題に込められた「失敗」の含意は、神に見守られ、その次にもっと旨くいくために神が与えた試練であった、ということが判って氷解しました。
 伝道という一本の糸に貫かれながら、多面的な才能を開花させたマルチ人間ヴォーリズの芽は、すでにその青少年期に育まれていたといえます。ヴォーリズは、一八八〇年(明治一二)一〇月二八日にアメリカのカンザス州レブンワースで、キリスト教会の仕事を通じて結ばれた両親の長男に生まれました。母親は、ヴォーリズを妊娠しているとき、将来宣教師として外国伝道に献身してくれることを祈っていたそうです。
 父親は、商業学校出身のビジネスマンであり、長年教会の会計係を勤め、赤字を黙って補填するようなもの静かな人物でした。家庭では、毎夜読書の時間をもうけ、子供達に文学作品を音読してやり、大きな感化を与えました。
ヴォーリズは、四歳の頃から従姉の影響で音楽に慣れ親しんでいました。また、鉛筆を持てば一時間以上も一人で絵を画いているような子供だったそうです。
彼は、幼い頃から自分で小遣いを稼いでいました。小学校高学年のときには、早くも教会のオルガニストとして俸給をもらい、教材本の訪問販売を経験し、その後も文書整理箱の販売で抜群の才能を発揮し、高等学校時代は新聞配達係、コロラド大学生としては食堂の給仕や家庭教師等の様々なアルバイトに従事しました。とくに、大学の最後の二年間の学費と生活の完全な自給経験は、近江八幡での自主独立の伝道にとって貴重な体験となりました。
コロラド大在学中にヴォーリズは、一九〇二年(明治三五)カナダのトロントで開催された学生伝道隊の大会に出席して霊感を受け、外国伝道を志願します。その目的は、「今まで宣教師の行ったことのない、今後も外国伝道団が手をつけそうもないような所へ行って、独立自給で神の国の細胞を作ってみたい」というところにありました。そうして選ばれたのが、パレスチナのガリラヤ丘陵に位置するナザレにたとえられた近江八幡だったのです。
ヴォーリズは大学を卒業し、一九〇五年に一九日かけて太平洋を渡り、二月二日に近江八幡の滋賀県立商業学校教師として赴任しました。赴任直後から独立自給の伝道活動を開始し、一九〇七年に伝道活動を理由に解職されたときには、二年間で三一人の受洗者を獲得していました。彼は、この成功に感激しています。なぜなら、他の宣教師によって当時の滋賀県は保守的で、受洗者など思いもよらない福音宣教の不毛地とみなされていたからです。
ヴォーリズが、自身でさえ予期せぬ伝道成果をあげ得た理由の一つは、生徒とあまり年齢差のない若き教師として、近江八幡へ永住の決意で赴任したことが大きかったと思います。もう一つは、実際に住んでみて、琵琶湖を抱えた近江八幡の美しい風景に愛着をもつようになったこともあるでしょう。
教師解職直後から、内外からの物質的精神的援助が寄せられ、とくに建築の仕事では名古屋・神戸・京都・長崎・東京や北海道からまで注文が来るようになりました。一九一〇年の欧州旅行では、メンソレータム社の創設者A・A・ハイドに出会う機会を得ました。近江ミッション(近江兄弟社)のための揺るぎない経済的基盤ができたのです。
一九一九(大正八年)には華族の一柳満喜子と結婚し、個人的にも安定した家庭を営むようになりました。
太平洋戦争中は、言い難い苦難の生活だった思います。しかし、八三歳の生涯を通してみると、天職といえる使命感に燃えた仕事に従事し、気に入った風光明媚の土地に住み、好伴侶を得て、充実した人生であったといえるでしょう。いうなれば、「失敗」の積み重ねで築かれた「三方よし」人生だったと思います。

2012年3月11日日曜日

去年、416日に書いた「大震災に寄せて―今こそ“希望”を」を、近江商人ブログの番外編としてここに採録します。事態は1年前とほとんど変わっていないからです。 

番外編:  大震災に寄せて ― 今こそ“希望”を
2011311日、現存の誰も経験したことのない数百年単位でしか突発しない大震災が発生してしまった。どんな言葉や表現よりも、TVの画像が自然の暴虐(ぼうぎゃく)の威力を眼前に繰り返し見せつけた。
 地震と津波と原発事故が重なるという明らかな非常事態である。地震と津波は天災としても、原発事故と数十万人の被災者への対応は、もはや人災と呼ぶほかはない状況に陥っているといわざるを得ない。
 被災後1カ月を過ぎても、震災関連の法案は1本も国会に提出さえされていない。原子力発電にも放射能にも素人である政府首脳が、事態悪化の追認を繰り返した挙句に、「計画避難」という生活の根拠をくつがえすような避難指示を、何の対策もないまま出している。
 他方、原発事故の当事者であり、コストカット(経費節減)で上りつめた文系社長を戴く東京電力は、漁業への影響も海外の反響も考慮することなく、中古タンカーによる処理案も一蹴して、通告する前に放射能汚染水を海に放出する始末である。
 政府にせよ、企業にせよ、これほどまでに愚劣なトップが居座り続けることの災厄は、これからの復興にとって深刻な障害となることは誰の目にも明らかであろう。例えば、首相の肝いりで発足した、政治学者を議長とする復興構想会議の議論である。初会合でさっそく提起されたのは、震災復興税という増税案であった。平時でさえ難しい提案を、いまだ被災者の生活の展望も拓けない非常時に、構想もなしに不用意に持ち出す安直な対応には、ハナから失望せざるを得ない。
 その場しのぎの、継ぎはぎだらけの言動をする人間と思われてしまっては、政治も復興もない。真に復興に手をつけられるのは、もはや国民の信を得た政治のみである。一丸となって再生に取り組む体制の構築こそ急務である。
とはいえ、日々の生活は待ったなしである。突然の大震災によって理不尽に命を奪われた人の無念さは察するに余りあるが、身をもって逃れ、危うく命を全うできた人々にも生活の再建を図る苦難が待ち受けている。
家も庭も全てを津波に流され、かろうじて見つけた桜の幹の断片を手にした若い父親が、「毎年、この桜の下で花見をしていました。今から思えば本当に夢のような日々でした」と語っていた光景が忘れ難い。人間の生活は本来無常であり、明日の分からない危ういものであることをあらためて実感させる映像であった。
 もちろん、この日本列島には昔から天災地変が幾度も繰り返された。過酷で甚大な被災を受けた場合、人々はどのような心情と覚悟で日々を送ろうとしたのであろうか。
 そのような時に想い出されるのは、二宮(にのみや)(そん)(とく)のことである。尊徳の幼名は金次郎。金次郎は、小学校の校庭に建てられた、(たきぎ)を背負って歩きながら読書する像によって知られている。金次郎は、天明7年(1787)に相模(さがみ)国(神奈川県)の農家に生まれ、後に尊徳と名乗った江戸後期の農村復興運動の指導者である。
 没落した自家を勤倹力行に努めて再興した。具体的には、人並みすぐれた体力を活かして厳しい労働に耐え、年貢の掛からない荒地を耕作して得た稼ぎは、田畑を買い求めたり貸金に回したりして回転させた。
26歳で武家の若党(わかとう)(従者)となって主家の財政を立て直したのをきっかけに、荒廃した関東農村の再建を求められ、転居を繰り返しながら復興に奔走する生涯を送った。没年は安政3年(1856)、享年70
 尊徳の時代は、歴史的な大きな災害はなかったとはいえ、それでも悲惨な天保の飢饉(ききん)は発生している。自然の暴威に備える手段の乏しかった当時、農村復興に命を懸けていた尊徳の心情は、次の歌によってうかがわれる。

  この秋は雨か嵐か知らねども
      今日の務めに田の草を取る

 西洋にも似たような表現がある。「たとえ明日地球が滅ぼうとも、今日リンゴの木を植えるだろう」という意味の言葉である。
尊徳の「今日の努め」の歌、西洋の「リンゴの木」という表現は、不確定な未来に何が起きようとも、人間は創造的活動から離れることはできないという意味で、ともに希望を語っているとも解されよう。被災者や被災地、そして日本全体に向けて今こそ届けられなければならないもの、それは“希望”である。(2011.4.16記)

2012年3月8日木曜日

経営は生き物、二代目塚本定右衛門の格言

商家の経営姿勢を重視した二代目塚本定右衛門定次は、63歳となった明治211888)年518日に、次のように述懐しています。

 一 (前略)人を(あざ)むき短尺無幅等の物品など用ゆべからず、只潜心(せんしん)留意実地の商業大切にして長久を計るべし、投機商類似を羨むべからず、目下の利を見るも損また大ひなり、物の盛なるは衰ひやすく、商家の極意は信用を重んじ内外の好評を得るにあり(後略)

このなかで定次が、商いで大事なこととして諭していることは、短尺物や無幅
物などの人を欺くような欠陥商品を取り扱わないことであり、地道な商売を行うことに専心し、家業の永続を図ることです。投機商人のようなやり方は、たとえ一時の利得を得ることがあっても、損失もまた大きいものである。商家の極意は、信用を重んじて内外の好評を得ることにこそある、と説いています。
ここには、不正な利得を忌み、(おご)ることなく正路の商いによって、家業永続
をはかることをもとめた経営姿勢が打ち出されているのであり、利益と商いの手法は、不可分のものとしてとらえられていることのよく分かる一文となっています。
 定次は、このように正しい商いをするべきであると説く一方において、他方
では正しい商いをしていてもどうにもならなくなる場合のあることもよく(わきま)
えていました。そのことを明治2年の「家内申合書」のなかでも、「窮して心を
動かさず」と題して次のように述べています。

 すべて物事手堅く致し候とも、思ひの外なる損失来る事あるものに候、古今の歴史に(かんが)みて知るべし、いかなる因によるか、いかなる縁によりてか、道を守る善人も窮する事のあるも世の習ひに候へば、その不仕合(ふしあわ)せの重なりし時におよびても、常々の心を乱すべからず、必ず道に背き規則を越えるなどの事あるまじく候、投機商類似を羨むべからず、一時に利得を得んとしてかえって損失を招く事あり、深く恐るべし

 右の文意は、以下のように解釈されるでしょう。すべての事柄を手堅く堅実に運ぶような人であっても、思いがけない損失に見舞われることはあるものである。それは古今の歴史を振り返ってみれば、いくらでも例のあることである。どのような因縁によるのか、いかなる理由にもとづくのか、はっきりとは分からないが、きちんと人の道を守って生活しているような善人であっても、時によって行き詰まり苦しむことがあるのは、人の世の常である。
たとえ不孝な巡り会わせが重なることがあっても、動揺して平常心を失い、
自棄になって人の道に背いたり規則を破ったりといったような、心の闇に迷うことがあってはならない。一挙に儲けて形勢を逆転しようと、投機商のような行為に走っても、却って損失を大にするだけである、と諭しています。
それでは、思いもよらない不運に出遭って窮地に追い詰められたときは、ど
のように対処したらよいというのでしょうか。この点についても、定次は前文に続けて周到に次のように述べています。

 我が身を慎み、諸事を(つづまやか)かにし、ますます家穡(かしょく)をつとむべし、しかれば家内和合して天道に合い、気運徐々に開くべし、永久の心得を相続する人、この理りを知るべし

 不運が重なり、悲運一身に集まるような場合は、自分の身を包み引き締め、
言動を控えめにし、生活を内輪に質素にするように努め、家業に専心すること
である。そうすれば、家内は和合して天道にも適い、やがて形勢も好転するで
あろう。人生の極意を得ようとする人は、この道理をよく弁えることが大事で
ある、というのです。
 定次は、商いにおいては常に内外の情勢の観察をおこたらず、時勢に遅れな
いように昼も夜も工夫が必要であることを力説して、この一文を結んでいます。
ここにおいて、定次の根底には、経営は生き物であるという確固とした認識
があっての格言であったことが知られるのです。

2012年2月25日土曜日

二代目塚本定右衛門の座右の銘「薄利広商」

初代塚本定右衛門教悦には、二人の息子がいました。嘉永4年(1851)に二代目を相続した文政9年(1826)生まれの長男定右衛門定次は、その実弟で万延元年(1860)に分家した天保3年(1832)生まれの次男粂右衛門(くめえもん)正之と協力し、呉服太物の卸売りを家業の中心にすえ、江戸時代に開店した京店につづいて、明治5年(1872)に東京日本橋伊勢町に東京店を開店させ、幕末維新の動乱期にも家業は隆盛でした。
その後の塚本家は、明治22年に塚本商社として会社組織を採り、26年に塚本合名会社に改組し、29年に小樽店を開くなど、商運は伸展しました。資本金100万円の株式会社塚本商店が誕生するのは大正9年(1920)のことです。
定次・正之兄弟の父親である初代定右衛門教悦は、徹底して得意先の利便をはかる対応こそ、利益の源泉であるとの信念を抱いていました。このような顧客満足を第一とする姿勢は、二代目の定次にも受け継がれたのです。
まず、明治維新という新時代に出会った定次は、それにふさわしい体制を築くために、明治2年正月に商いの基本姿勢を打ち出した「家内申合書」を制定しています。そのなかでまっさきに掲げられているのは、「家名相続して国恩を思う」という、次のような遵法(じゅんぽう)精神を説いた条項で

上下の船積み、他国の出稼ぎ、道中往還等については、水火盗難、或は世上の人気動揺候はば、仕来りの商売も成りがたく、迷惑いたすべくのところ、何国へ参り候ても、少しも滞りなく商いいたし候は、全く大政府の御蔭に候えば、御国恩の重き事、常々忘るまじく、せめては、時々仰せ出されの御規則をかたく相守り、我身を慎み、渡世(とせい)向きに精を出すべし

内容は、次のような文意としてまとめられます。自分たちのような商業従事者にとって、上り下りの船への商品の積載や他国への出稼ぎにおいて、その道中で水難火難や盗難などに出会ったり、世上不安であったりしたならば、これまで続けてきた商売も成り立たず、迷惑するところであるが、どこの国へ出かけても円滑に取引ができるのは、まったくもって明治政府の御蔭である。平和な世の中が維持されているその国恩を忘れないためにも、せめて政府から出る布令は厳守し、身を慎みながら仕事に精進すべきである。
戊辰(ぼしん)戦争が終結し、維新政府が統一政権となったばかりの時点で、はやくも平和回復を達成した政府の功績を、国恩という表現で大いに称賛していることは、塚本家が幕末の動乱で京都店を焼失した災難が下地になっていると思われ
第二項の「()(しゅ)の利益を(はか)る」のなかには、以下のような一節があ

 一 旅方においては、御得意先のため()(くち)のよろしき()呂物(ろもの)を大山にして、売りきれ物なきよう注意し、御注文の節は、(いささか)たりとも捨置かず、はやく御間に合せ申べし、御店へ参上の時、行儀正しく御店中をはじめ出入方迄も厚く敬ひ申すべく候、万一間違事出来候とも、高声に争はず、その時の重立たる人に談しあひ、不都合これなき様に計うべし、左候えば、天理として自然に商ひ高も増し、随て利益も多かるべきに付、能々(よくよく)相心得べし

行商先では得意先のために品質の良い商品を十分に準備して、品切れのため注
文に応じられないことのないように配慮し、たとえ少量の注文でも迅速に対応すること。得意先のほうから来店した場合は、店員はもちろん、出入りの職人も丁寧に礼をつくさねばならない。万一、商談中に行違いがあっても声高に言い争わず、重職の店員と相談して穏便に処置すること。そうすれば、売上高も増加して自然と利益も増えるものである。
ここでは、顧客本意の商いをしていると、結果として利益の増加につながる
のであり、徹底して顧客満足を追究することの大切さが説かれています。父親の商いの真髄を継承したこの精神に基づいて、定次は座右の銘を「薄利(はくり)広商(こうしょう)」としたので