新しい市場の開拓
近江商人の活動領域は、地縁血縁の期待できない他国であったから、彼らは一から市場を開拓していかなければならなかった。進取の気性や敢為の精神をもたねば、新しい産業や商圏を築くことなど出来なかったことはいうまでもない。しかも単に勇敢であっただけではなく、創意工夫を凝らし、状況に応じた的確な判断を下すことが必要であった。
持下り商いを実施した創業期には、毎年同じ地域へ出かけて顔馴染になることに努めた。出先の庄屋・寺・神社・旅籠などの土地の有力者を頼り、そのアドバイスを得ながら、得意場を定め、顧客を広めていった。
市場開拓は販売法と関連が深い。享保19年(1734)、叔父の助力もあって19歳で合薬の持下り商いを始めた初代中井源左衛門は、衣料品の帷子を扱う同郷の先輩に導かれて上総国へ出かけた。合薬は配置販売であり、帷子は訪問販売であるので販売方法が同一であってはならないと考えながらも、初回のことなので源左衛門は先輩の言を容れて一緒に回村した。2回目以後、源左衛門は自由な単独販売に移り、関東から甲信地域に販路を広め、売子も使用するようになり、延享2年(1745)最初の出店を下野国の越堀町に設けた。
後に源左衛門は、90歳という長命を保ち、その資産は10万両を超えた。商品によって販売法は違うはずという判断を下しながらも、意に反する先輩の言を一度は受容した態度は、19歳の若者の判断としては卓越した思慮の行届いた行動であったといえる。
販売促進法として、遊郭や浄瑠璃本を活用した近江商人もいる。寛政・文化の頃に次のような俗謡があった。「江州柏原、伊吹山のふもと、かめや左京のきり艾」という都都逸である。これは、伊吹山麓に位置する中山道の坂田郡柏原宿の艾商松浦七兵衛が、伊吹艾を宣伝するために、江戸において吉原の遊女に唄わせたものである。そのため、江州柏原といえば、伊吹艾が合言葉のようになり、参勤交代の武士から庶民の旅人までが買求めるようになった。
伊吹艾がどれほど著名な道中土産であったかといえば、文久元年(1861)の和宮降嫁一行が柏原宿を通過した際、艾店の一つでは3棹の大長持に一杯入っていた小売包に売り切れが出たといわれている。また、七兵衛の兄の松浦庄兵衛は、大坂で伊吹艾を宣伝するために浄瑠璃本を作成させている。松浦兄弟は、当時の大衆に訴える効果的な宣伝媒体を利用したのであり、その斬新な宣伝方法は現代のマスコミを使った商品広告の走りであったといえよう。
近代に入ると、様々な西洋の文物が流れ込むようになった。近江商人のなかにも、新しい輸入品を商って成功するものも出てきた。あまり知られていないが、明治初期に嗜好品のビールの醸造販売にたずさわった近江商人がいる。
販売のためのビール醸造は、明治五年(1872)の大阪での製造が初めてとされている。しかし、同じ頃、野口正章(1849~1922)も山梨県甲府市でビールを醸造している。
野口家は、蒲生郡日野の桜川村の出身で、初代が関東地方への行商の途次、甲府を選んで宝永年間(1704~1710)に酒醤油の醸造販売店を開いたことが始まりである。屋号は十一屋。十一屋の若主人の正章は、非常な舶来好みであり、明治2、3年の頃から試験的にビールの醸造機械を研究し、山梨県令の藤村紫朗の奨励もあって醸造機械を設備し、明治5年には横浜でビール醸造を手がけていたアメリカ人のW・コープランドを招聘して醸造法を習得した。数年間に10万円余の私財を投じての苦心の末に、明治7年4月に完成品の生産に成功した。
正章は、三ツ鱗の商標をつけて外国人の多く住む京浜地方に売り出した。野口家の三ツ鱗のビールは、28年頃には、「山梨ビール」の名前で山梨県内14箇所の店でも販売されるようになり、34年まで存続した。江戸時代から醸造業を得意とした蒲生郡日野出身の近江商人のなかにあって、正章は新製品ビールの醸造販売の鼻祖の位置を占めている。
ちなみに、正章の妻は女流南画家の野口小蘋(1847~1917)である。大阪生まれの小蘋の旧姓は松村親子。明治10年に正章に嫁した。画を日根野對山に学び、博覧会や共進会等で入賞し、皇族に絵画を教授し、宮内庁の依頼で襖や屏風に多くの作品を残した。華族学校に奉職し、37年には帝室技芸員になった。
また、黒田清輝・和田英作・平福百穂に師事して、洋画と日本画の両方を修めた野口謙蔵(1901~1944)は正章の甥であり、近江の風物をこよなく愛し、よく描いた。
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