2020年2月3日月曜日


English Language Edition PrefaceThe STORY OF JAPAN’S OHMI MERCHANTSThe Precept of Sanpo-yoshi

 

My research into the Ohmi merchants, who can be called the originators of Japanese-style management, seeks to better understand the unique aspects and universality of Japanese-style management by discovering, analyzing and compiling papers on the historical documents found in the former homes and warehouses of merchants.

The Ohmi merchants have a long history. In Japan, the mercantile industry made its first appearance around the 12th century. From the very beginning, the farmers of the Ohmi region served as zashonin (Guild merchants) merchants who held special rights, and traded with the regions neighboring the Ohmi province during the agricultural off-season. The dedicated Ohmi merchants we know today appeared at the end of the 16th century. From that point onward, the Ohmi merchants expanded their trading territory throughout all of Japan, and even developed markets on the Asian continent and North and South America after the conclusion of trade treaties with the western powers in 1859. Today, many of the oldest companies in Japan can trace their roots to the Ohmi merchants.

In being chosen to become part of the “JAPAN LIBRARY” published by JPIC, Three-Way Satisfaction – The Story of Japanese Ohmi Merchant will be the first English-language publication in the long history of research into the Ohmi merchants. I am thrilled the achievements of the Ohmi merchants, which covered a vast geographical area and are still felt today, will now have a chance to be known in throughout the world.

The original Japanese-language edition of Three-Way Satisfaction – The Story of Japanese Ohmi Merchant was written with the general public of Japan in mind, which meant many aspects of common knowledge in Japan required no explanation. That knowledge is not common outside Japan, however, and I therefore thoroughly reviewed the text of the book for the English-language edition, revising difficult-to-understand passages, adding new passages to provide additional background not found in the original version,  and giving annotations to aid greater understanding.

Long-term sustainability, rather than the pursuit of profit, forms the very essence of Japanese business. This point is starkly different from what is taught in U.S. university and graduate school business management courses, and may accordingly cause some initial bewilderment. That being said, while the principle of Corporate Social Responsibility, CSR, is seeing increased adoption in businesses globally today, there is no doubt that some corporations outside Japan have also long adhered to principles similar to the sanpo-yoshi  triple win philosophy of the Ohmi merchants, who founded their practices on the tenets of Buddhism.

In presenting the achievements of the Ohmi merchants, who devoted themselves to organizational sustainability, refrained from charging high interest rates and placed the common good ahead of profit, it is my wish that this book will spark new interest in Japanese-style management and provide hints for the direction of business activities going forward.

                          Kunitoshi Suenaga

at Seiran-tei, Kyoto

2018年2月4日日曜日

近江商人のネットワーク構築と社会貢献

中井家の乗合商い

 
近江商人は、通常複数の出店を持ち、出店からさらにその枝店を広げる場合もあった。家によっては、10を超える出店・枝店を設けることも少なくなかった。乗合商い、または組合商いとよばれた合資形態の多店舗展開の仕組みと機能を中井源左衛門家と矢尾喜兵衛家について取り上げてみる。中井家は初代から四代目までに合計21の出店・枝店を開いた。そのうち乗商いという共同企業の形態をとった出店は、東北から九州にわたった12の店舗である。

 これらの乗合店のうち、後に中井家の宝庫となった仙台店を取り上げる。中井家では、生糸・古手(古着)・繰綿の諸国産物廻しを構想して、明和6年(1769)に、仙台、伏見、後野の3店の同時開店方針を打ち出した。そのための資金調達方法として他人資本の導入を図る必要が生じた。仙台店の資本金は5000両、出資者は5人、損益分配の持ち分比率を全体で20分とした。

出資者の内訳は、初代源左衛門(3375両、135厘持ち)・矢野新右衛門(500両、2分持ち)・井田助右衛門(500両、2分持ち)・杉井九右衛門(3122分、125毛持ち)・脇村宗兵衛(3122分、125毛持ち)である。共同出資者の矢野・井田・脇村・杉井は、中井家の縁者や取引先などであった。天明元年(1781)までの10年間の配当金総計は、6757両、年平均配当率は877%であった。その後、天明の飢饉や仙台藩札の不通のなどの災厄が重なって源左衛門以外の者は出資金を引き揚げたので、仙台店は中井家の単独経営になった。

矢尾家の乗合商い

 
矢尾喜兵衛家は、寛延2年(1749)に武蔵国秩父(現・埼玉県秩父市)で、酒造業と日用品の小売業・質屋業を始めた。16の出店を関東地方に展開し、そのうち9店は酒造商、3店は乗合店であった。矢尾家の酒造業を中心にした支店網は、酒株を持つ地元の有力者から酒株と一緒に酒蔵、酒道具、店舗を居抜きで借り受け、奉公人を支配人として送り込む方式で形成された。このやり方であれば、固定設備に費用のかかる酒造業でも、少額の資本で開業でき、乗合店ならもっと少なくて開店が可能となる。

このような乗合店方式による多店舗展開は、適切な経営管理を必要とした。多店舗の経営管理のために開発採用されたのが、事実上の複式簿記である。商家で最も大事な帳簿は、仕入れと販売と一切の金銭出納を記し大福帳である。まず大福帳から店卸帳をつくり、さらに近江の本宅への決算報告のために店卸目録が作られた。中井家も矢尾家も、店卸帳や店卸目録の損益は、貸借対照表と損益計算書に相当する二通りの計算によって算出され、複式簿記の原理で計算されている。他の近江商人の大店でも、同じ記帳方式であり、近江商人の簿記法は、鴻池や三井に優るとも劣らない最高水準に達していたから、当主は遠国の出店を支配人が持参する店卸目録を通して管理できる仕組みになっていた。

商人団体と定宿制

 
行商を営業活動の原点とした近江商人は、安全な旅商のための方策を考え出して、旅の組織化を図った。その一つが行商先別あるいは出身地別に結成された商人団体である。両浜組は北海道へ進出した商人団体であり、栄九講は九州を商圏にした団体である。この種の商人団体の目的は、競争を避け、権益や商権の確保、相互扶助にあった。

 代表的な商人団体に、売掛金回収機能と特約旅館制度を2本の柱とする日野大当番仲間(ひのだいとうばんなかま)がある。構成員は明和7年(1770439人、明治10年(1877)でも241人であり、他に類例をみない息の長い団体であった。日野商人の団結には二つの柱があった。一つは日野大当番仲間が、売掛金返済訴訟において江戸幕府へ直に上訴できる法的手続きを明記した規定をもっていたことである。政治的支配の異なる遠国に商圏を張った近江商人にとって、債権の確保は最大の関心事であった。もう一つの柱は、中山道と東海道での特約旅館制度であった。特約旅館は、「日野商人定宿」の看板を掲げ、長旅を続ける近江商人に心身の安らぐようなサービスを提供すると同時に、取引の利便性を与えた。

 社会的貢献

 
本宅を近江に維持して全国を活動舞台とした近江商人は、地元や出店を設置した地域住民への細やかな配慮を絶やさなかった。秩父に出店を開いた矢尾喜兵衛家の四代目当主は、開店後100年以上を経た安政年間になってもなお、自分達は外来者であることを忘れずに、品行を方正にしなければならないと店員を諭し、普段から秩父の住民への施米や施金に努めた。近江商人の社会公共のために尽くした陰徳善事は、数えるいとまもないが、わずかに瀬田唐橋の一手架け替えと、天保飢饉時に敢行された飢饉普請を紹介しておこう。

中井正治右衛門は、文化12年(1815)に幕府に願い出て、古代以来最も重要な瀬田唐橋を独力で架け替え、将来にわたっての架け替え基金を寄付した。工事と基金の総計は3000両であり、今日であれば100億円にも相当する。

北海道松前に出店し、漁業経営で産をなした藤野四郎兵衛家は、天保の飢饉時に、松前では数千俵の米の施与や原価販売をおこなう一方、郷里の近江でも住宅の改築と寺院仏堂の修築工事を実施した。工事着工を聞き付けた領主の彦根藩は、他人の難儀を顧みない身勝手な振舞いとして、役人を派遣して差し止めようとしが、四郎兵衛の企図が窮民救済のための起工にあることを知って、逆に嘆賞したという。郷里の人々はこの人助けの美挙を「藤野の飢饉普請」と呼んで長く称えた。

以上のような近江商人の義挙は、収益性と社会性の両立という観点から、法令順守や環境保護とともに社会貢献を重視して、企業活動そのものを通して社会との良き関係を維持することが必要になってきているという、今日のCSR(企業の社会的責任)の考え方の先駆けといえる。

2016年11月1日火曜日

初代伊藤忠兵衛の大阪贔屓と京都嫌い


初代伊藤忠兵衛の大阪贔屓(ひいき)と京都嫌い

 

 初代伊藤忠兵衛(18421903)にとって、明治5年(1872)の大阪開店は、個人的には一代の大勝負であったが、全体的な時代の流れで見ると、大阪を目指した多くの近江商人団の一員としての進出、という側面を持っていた。しかも、気取らず、本音で語り、迅速を尊ぶ大阪の土地柄は、生誕した村の江州(ごうしゅう)(べん)をもって終始するような真率で気の早い自然人であった忠兵衛にとって、気質的にも馴染(なじ)みやすい所であった。

近世の大阪は、摂津の平野・堺・八尾(やお)・城州八幡(やわた)・伏見・近江等の周辺地域から集まってきた人々によって作られた城下町なので、(うじ)素性(すじょう)は重視されない傾向にあった。さらに、城下町というにもかかわらず、上町(うえまち)台地の北部に位置する大坂城周辺は街の中心地ではなく、都心は町人居住地の船場(せんば)あったしたがって、町の雰囲気には17世紀後半の大坂で活躍した俳人小西来山(こにしらいざん)が、「お奉行(ぶぎょう)の名さへ覚へずとし暮れぬ」、と詠んだような伸びやかさがあった。

反対に忠兵衛は、大の京都嫌いであった。御所を中心に発展した伝統の街であるだけに氏系図や老舗(しにせ)が重視され、本音と建前を巧みに使い分け、外来者への警戒心の強い京都に強く反撥した。

それはを店印とする伊藤京店が、四条(しじょう)室町(むろまち)下ルに移転新築した際のエピソードからもうかがえる。移転新築を決行する前に、室町(たこ)薬師(やくし)下ルの旧店舗地で新築しようとしたが、大工の不注意から小火を起こしてしまい、隣家の主人から苦情が出た。その口上は

「大体さんはお店の人が若過ぎる、あんな人に任せてゐると自然火事も起るし、吾々は心配でたまらぬ」

というものであった。当主の忠兵衛自身による陳謝にもかかわらず、失火の原因を店員の若さに帰してとがめられたことに立腹した忠兵衛は、その場で店舗の移転新築を決断したのである。忠兵衛は、京都の他に比類のない工芸の技術力を認めて京店を設置したものの、京都とは肌が合わなかった。

新参者の忠兵衛を容れる包容力は、京都よりも大阪の方がはるかに大きかったのである。息子の二代目忠兵衛は、父初代忠兵衛の大阪贔屓を次のように述べている。

 

 父が如何に大阪を高く評価し、期待したか、仕事や交友は申すに及ばず、夏の火の見(やぐら)暮しから川涼み、夜店、植木市、さては十日(とおか)(えびす)の雑踏にまで揉まれに行く。第二の故郷と言ふよりも大阪が日本中の力を持ってをる様に惚れ込み、また働きよかった様である。

 

働き易い仕事場を提供した大阪への、忠兵衛の深い愛着と(なつ)かしみの伝わる思い出話である。店員の懐旧談にも、店総出の夏の涼み船の話が出てくるので、主従ともども大阪の風物詩を愉しんだのである。

 
末永國紀「近江商人初代伊藤忠兵衛の大阪時代」(大阪商業大学商業史博物館『紀要』第17号、平成28年、所収)

2016年5月5日木曜日

新しい市場の開拓


新しい市場の開拓

 

 近江商人の活動領域は、地縁血縁の期待できない他国であったから、彼らは一から市場を開拓していかなければならなかった。進取の気性や敢為の精神をもたねば、新しい産業や商圏を築くことなど出来なかったことはいうまでもない。しかも単に勇敢であっただけではなく、創意工夫を凝らし、状況に応じた的確な判断を下すことが必要であった。

 持下り商いを実施した創業期には、毎年同じ地域へ出かけて顔馴染になることに努めた。出先の庄屋・寺・神社・(はた)()などの土地の有力者を頼り、そのアドバイスを得ながら、得意場を定め、顧客を広めていった。

 市場開拓は販売法と関連が深い。享保19年(1734)、叔父の助力もあって19歳で合薬の持下り商いを始めた初代中井源左衛門は、衣料品の帷子(かたびら)を扱う同郷の先輩に導かれて上総国へ出かけた。合薬は配置販売であり、帷子は訪問販売であるので販売方法が同一であってはならないと考えながらも、初回のことなので源左衛門は先輩の言を容れて一緒に回村した。2回目以後、源左衛門は自由な単独販売に移り、関東から甲信地域に販路を広め、売子も使用するようになり、延享2年(1745)最初の出店を下野(しもつけ)国の越堀町に設けた。

後に源左衛門は、90歳という長命を保ち、その資産は10万両を超えた。商品によって販売法は違うはずという判断を下しながらも、意に反する先輩の言を一度は受容した態度は、19歳の若者の判断としては卓越した思慮の行届いた行動であったといえる。

 販売促進法として、遊郭や浄瑠璃本を活用した近江商人もいる。寛政・文化の頃に次のような俗謡があった。「江州柏原、伊吹山のふもと、かめや左京のきり艾」という都都逸(どどいつ)である。これは、伊吹山麓に位置する中山道の坂田郡柏原(かしわばら)宿の(もぐさ)商松浦七兵衛が、伊吹艾を宣伝するために、江戸において吉原の遊女に唄わせたものである。そのため、江州柏原といえば、伊吹艾が合言葉のようになり、参勤交代の武士から庶民の旅人までが買求めるようになった。

 伊吹艾がどれほど著名な道中土産であったかといえば、文久元年(1861)の和宮(かずのみや)降嫁一行が柏原宿を通過した際、艾店の一つでは3棹の大長持(おおながもち)に一杯入っていた小売包に売り切れが出たといわれている。また、七兵衛の兄の松浦庄兵衛は、大坂で伊吹艾を宣伝するために浄瑠璃本を作成させている。松浦兄弟は、当時の大衆に訴える効果的な宣伝媒体を利用したのであり、その斬新な宣伝方法は現代のマスコミを使った商品広告の走りであったといえよう。

 近代に入ると、様々な西洋の文物が流れ込むようになった。近江商人のなかにも、新しい輸入品を商って成功するものも出てきた。あまり知られていないが、明治初期に嗜好品のビールの醸造販売にたずさわった近江商人がいる。

販売のためのビール醸造は、明治五年(1872)の大阪での製造が初めてとされている。しかし、同じ頃、野口正章(18491922)も山梨県甲府市でビールを醸造している。

野口家は、蒲生郡日野の桜川村の出身で、初代が関東地方への行商の途次、甲府を選んで宝永年間(17041710)に酒醤油の醸造販売店を開いたことが始まりである。屋号は十一(じゅういち)屋。十一屋の若主人の正章は、非常な舶来好みであり、明治23年の頃から試験的にビールの醸造機械を研究し、山梨県令の藤村紫朗の奨励もあって醸造機械を設備し、明治5年には横浜でビール醸造を手がけていたアメリカ人のW・コープランドを招聘(しょうへい)して醸造法を習得した。数年間に10万円余の私財を投じての苦心の末に、明治74月に完成品の生産に成功した。  

正章は、三ツ(うろこ)の商標をつけて外国人の多く住む京浜地方に売り出した。野口家の三ツ鱗のビールは、28年頃には、「山梨ビール」の名前で山梨県内14箇所の店でも販売されるようになり、34年まで存続した。江戸時代から醸造業を得意とした蒲生郡日野出身の近江商人のなかにあって、正章は新製品ビールの醸造販売の鼻祖の位置を占めている。

ちなみに、正章の妻は女流南画家の野口小蘋(しょうひん)18471917)である。大阪生まれの小蘋の旧姓は松村親子。明治10年に正章に嫁した。画を日根野對山(ひねのたいざん)博覧会共進会皇族絵画教授宮内庁依頼屏風作品族学校奉職37年には帝室技芸員になった。
また、黒田清輝・和田英作・平福百穂に師事して、洋画と日本画の両方を修めた野口謙蔵(19011944)は正章の甥であり、近江の風物をこよなく愛し、よく描いた。