1 三方よし経営とは
近江商人という呼び方は、近江国以外の人々が、「あれは近江国からやって来た、外来の商人なのだ」という意味で使った言葉である。近江国内でのみ商売する人は、近江商人とは呼ばれない。現在の滋賀県域である近江国出身者であって、他国商いに従事した人々こそ近江商人と呼ばれる有資格者である。
近江商人の前史は、鎌倉時代にさかのぼる。その当時から近江では隊商を組んでの隣国行商が活発であった。江戸時代に入って、天下が統一されて治安が良くなり、街道や宿場の制度が整ってくると、単独、あるいは少人数での旅ができるようになり、近江商人の足跡は北海道の松前・江差から九州の長崎・鹿児島に見られるようになった。なかでも出店の数が多かったのは、関東である。これらの出店では、呉服太物、小間物から荒物にいたる日用品を扱い、同時に酒造業などの醸造業に従事した。近江国日野の出身で、駿河国御殿場を中心に醸造業や日用品の卸小売りなどの出店を、享保3年(1718)以来数ヵ所にわたって設けた山中兵右衛門などもその一人である。
近江商人による出店設置は、明治・大正期に入ってもなお活発であった。その範囲は朝鮮や中国はもとより、南北アメリカにまで広がった。これらの出店の後身が、現在の近江商人系企業である。
現代の日本は、世界一の老舗企業大国といわれ、社歴が100年を超える企業は、5万社以上あり、200年を数える企業は世界の45%にも及んでいる。この老舗企業の一角を占めているのが、近江商人系企業であり、800年を超える歴史を持った近江商人は、まさに日本型経営の源流の位置にある。
2 商いの手法
近江商人の商いの手法は、天秤棒をかついだ行商時代は持下り商いと呼ばれ、出店を持つようになると諸国産物廻しといわれる。すなわち、上方から呉服太物・小間物・売薬などの完成品を地方へ持下り、地方の生糸・紅花・青苧などを上方へ持ち登る手法である。完成品とその原材料を扱う、一種のノコギリ商いであり、現代商社のような効率の高い商法であった。そうした手法は、豊かな富の源泉となり、同時に文化の伝播と地方物産の開発に貢献することになった。
近江商人の行商は、見込みを付けた地方へ毎年出かけて商いに従事することによって、顔なじみを増やし、地縁も血縁もない所で地盤を築いていくものである。その上で、「三里四方釜の飯を喰うところ」、という出店立地に関することわざが残っているように、有効需要のある有望な土地を選んで開店した。
行商に始まり、やがて出店を開くようになる近江商人の他国商いは、出先の人々に受け入れられなければ、商人としての立身も、出店の定着も不可能であった。「近江泥坊」と揶揄されるような、巧みな商法で儲けた分を、洗いざらい生国近江へ持ち返るだけでは、せっかく築いた商圏を維持できないのはいうまでもない。出向先の地域や人々から評価され、信頼を得るための商いの姿勢を端的に示すものが、「売り手よし、買い手よし、世間よし」からなる三方よしの理念である。したがって、三方よしは、近江商人の商いの手法そのものに由来する理念である。
三方よしの理念は、宝暦4年(1754)に70歳となった麻布商の中村治兵衛宗岸が、孫娘の婿に迎えた15歳の養嗣子宗次郎に書き残した「宗次郎幼主書置」のなかの一節が原典である。その表現が変遷して、現代の三方よしという短いキャッチフレーズとなった。三方よしの順番では、なぜ売り手よしが一番手に置かれているのだろうか。早計に、「やはり、自分の都合が最優先なのか!」と、短絡的にとらえるべきではない。売り手よしは、売り手の側に立って働く人たちの環境が良いという意味にとらえるべきである。働きやすい職場環境が整えられていることが第一の条件ということである。誰しもパンのみのために働くのではない以上、働く意義を見出せる職場を希求している。
接客の現場に立つ販売員であれば、良い職場環境の下で、接客への熱意や顧客満足のための自発的な工夫を生み出すことができ、売る側とお客の双方にとって心地好い売買が成立し、その好い記憶が二番手の買い手よしとなって、一見のお客を再来の顧客に転化させるのである。こうして、売り手よし、買い手よしを実現でき、仕事の喜びを感じられるようになると、三番手の世間よしという、仕事の社会的意義に目覚めるようになるであろう。
三方よしが、うまく循環するようになれば、働き手は働き甲斐を得て、ますます情熱をもって仕事に励むことができる。売り手よしは、このようなプラスの循環の最初に位置するからこそ、三方よしの一番手に挙げられているのである。
実際の経営の現場においても、売り手よしという従業員の働く環境に気を配っている企業の業績は好調である。残業もなく、定時退社の従業員は退社後の時間を自由に使うことができ、リフレッシュの自由時間を明日のエネルギーのために蓄えることが可能となり、労働の生産性を高める方向に作用する。ひいてはそのことが、業績の好調をもたらすという好き循環を生み出している例は多いのである。いうまでもなく、このような企業では、経営者と従業員との信頼関係は日々に再生産され、優れた人材が集まってくるという相乗効果が生まれることは自然の流れである。
代表的な事例として、「会社は社員を幸福にするためにある!」との信念を貫いて、平成20年には創業以来48年間増収増益を達成した伊那食品工業㈱を挙げることができる。経営トップの塚越寛氏は、著書の『年輪経営』(光文社、2009年)のなかで、珠玉の信念を披歴している。
すなわち塚越氏は、企業は年輪のように少しずつ大きくなっていけばよいのであり、そうした低成長の年輪経営が、企業の永続を可能にすると考えるのである。社員を大事に扱う経営が、年輪のように確実な成長を達成したのである。
一度に高利を求めず、薄利を着実に積み重ねていくという塚越氏の考え方は近江商人の三方よしの理念と通底している。現に、近江商人は営利について述べた家訓や遺言の中で、薄利について繰り返し言及している。
3 三方よし経営の系譜
450年の社歴を持つ最大手の総合寝具メーカー西川産業㈱の祖は、西川甚五郎家である。蒲生郡近江八幡の西川甚五郎家本宅には、江戸出店から年に二回、決算帳簿が送られた。毎回の帳簿の末尾には、必ず同じような趣旨の家訓が記されている。
文化4年(1807)12月の家訓は、次のようなことを述べている。縁あって一つ屋根の下で暮らすのだから、お互いに親しみ合いながら家業に精励すること。商品は品質をよく吟味して、「薄き口銭にて売りさばき」と、薄利で売ることを奨励している。さらに、たとえ品薄の時であっても「余分の口銭申し受けまじく候」と、割増金を取ってはならず、売り惜しみや買い置きなどの世間に害を与えるような行為を禁じている。
利益に対する禁欲的な姿勢は、社歴310年の総合繊維商社外与㈱に伝わる家訓のなかにもみられる。外与㈱の前身である近江国神崎郡五個荘の外村与左衛門家(外与)には、安政3年(1856)制定の「心得書」がある。この当時の外与は、近江商人の番付のトップに位置付けられ、江戸時代の最盛期を迎えていた。
「心得書」は、自家の問屋業における基本姿勢を共存共栄と規定している。すなわち、取引においては作為をせず、自然の成り行きを尊重する。物事の判断基準を長期的平均の見方におき、商いの利益を取るか、人の道を選ぶかの瀬戸際では、「永世の義を貫く」という人の道優先を宣言している。
このような立場は販売姿勢でも一貫している。取引相手の小売商の気配に応じて、時の相場の成り行きに任せて、損得に迷わずに売り渡すこと。売り手側の問屋が、安売りしたことを後悔するような取引であれば、小売商側に利益の出ることは間違いないのであり、それは双方にとって好都合なことと受け止めよ、と説く。「売りて悔やむこと、商業の極意、肝要にあい心得申すべく候」と、薄利で満足することこそ商いの極意であるというのである。
この条文の後には、目先の利に目がくんだ、売り惜しみや思惑取引は、天理に反し、家法に背く不実の取引であり、そのような思惑取引によって多少の利益が得られたとしても、取引の永続は望むべくもなく、厳に慎むべきであるという条項が続いている。
薄利の系譜は、明治になっても受け継がれた。平成23年に創業200年を迎えた、東証一部上場のツカモトコーポレーションの創業者である初代塚本定右衛門は、晩年に致富への道を問われて、次のように答えた。
「資産を築く特別な方法があるわけではない。ただ勤倹と正直あるのみである。ただその際に、片時も忘れてならないことがある。それは、得意先の儲けを手助けするつもりで、相手の立場を尊重すれば、それはやがて我が身に余沢となって返ってくるであろう」と語り、「お得意の儲けをはかる心こそ、我が身の富を致す道なれ」との道歌を詠んだ。二代目定右衛門も、父の後を承けて、「薄利広商」を座右の銘とした。
西川甚五郎家・外村与左衛門家・塚本定右衛門家のいずれの商いの理念にも共通するのは、正路の商いによる家業永続の姿勢である。正路の商いとは、まっとうに勤勉に働いた結果としての利益こそが、誰にもはばかることのない真の利益であるとの信念のもとに商いに従事することである。相場を張ったり、買い置きをしたりして、他人の難儀をかえりみないで得た利益は、家運長久をもたらさないことを弁えていた。
家訓のなかでも、欲心を刺激しやすい営利活動では、欲望を制御せず野放しにすれば、奢りとなり、いつか道に外れて、大きな禍を招くことになると諭している。富家の衰退は、奢りに発すると見なし、子孫の奢りを防ぐことが、成功した近江商人の家訓に込めたメッセージであった。
4 三方よし経営の現代的意義
近江商人の「三方よし」の理念の最大の特徴は、単に「売り手よし、買い手よし」という取引の当事者だけでなく、周囲の世間にも配慮した取引を重視した「世間よし」を取り入れていることにある。江戸時代からすでに、近江商人と呼ばれる人々は、「実の商人は、先も立ち、我も立つことを思うなり」という石田梅岩の思想の実践者として、共存共栄を自覚し、利を独占する商いの一人勝ちを認めなかった。彼らが、世の中あっての商いであり、商売は世の中全体を得意先として行うものであるという、商いの社会性に気づいていたのは、その商いが他国稼ぎであったことに由来する。この「世間よし」は、現代のような経済のグローバルな展開や深刻な地球環境問題の下では、一層重要な理念となっていくであろう。ビジネスの社会性を自覚しないような企業に明日はないのであり、その意味で世間よしを取り入れた近江商人の三方よし経営は、決して過去のものではなく、これからの企業経営に示唆するところが大いにあるといえよう。
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