2024年3月3日日曜日

                                     「三方よし」表現の初出考     202433

現在、「三方よし」という用語は、近江商人の経営精神の普遍性を端的に示すものとして受け止められている。すなわち商いというものは、単に取引当事者の売り手と買い手のみでなく、取引自体が世のため、人の為になることを求めるという内実を含んだ言葉である。

「三方よし」という用語そのものの由来は、現段階の私見の範囲内では江戸時代にまでさかのぼる。

「三方よし」という表現は、例えば、江戸後期の戯作者の柳亭種彦(天明3年<1783>~天保13年<1842>の著作のなかで使用されている。柳亭種彦は、本名を高屋彦四郎知久という、小普請組に属する食禄200俵の幕臣である。山東京伝に弟子入りし、合巻の第一人者となった。著作でもっとも有名なのは、『偐紫田舎源氏』である。いつも羽織袴に小刀を差した、謹厳実直な人柄であり、生計に苦しむことはなく、文字考証の随筆を含む執筆を愉しんだといわれる(森銑三『人物逸話辞典』)。

「三方よし」という用語は、彼の合巻の一つであり、文政13年(1830)~同14年にかけて発行された『昔々歌舞妓物語』のなかで、次のように使用されている。

  (前略)おせきさまがおかはゆくバ、くるわへあしもむけまいとの

せいしをおかきなさるゝと、こう七どの尓それをわたし、ごかんだ 

うのゆるりやう尓、およばずながらいたしませう、さうしてあなた

をとりもどせバ、お心ざしもむそく尓せず、つとめにださねバおミ

をもけがさず、一もんじやもさらりとすめバ、かほもたって三方よ

、なァもうし、おせきさま「あい/\さうしてくださんすと、とゝ

さんのおミのため(後略)

引用文の文意は、志しをむそくに(無足に)せず、己の身も汚さず、一文字屋もさらりと済めば、先方の顔も立って三方が丸く収まるので、三方よしというのであり、廓話のなかで「三方よし」という用語が使われている(末永國紀『近江商人の経営と理念―『三方よし精神の系譜』清文堂出版、2023年、829830頁)。

合巻は、さし絵入りの通俗的な読み物である草双紙の一種である。「三方よし」が、そうした大衆的な読み物に使用された言葉であることを考えると、当時から日常的に用いられていた言葉であったといえよう。

 「三方よし」という用語は、江戸時代にはなかった用語であると主張する出版物がある。宇佐美英機『近江商人と出世払い―出世証文を読み解く』(吉川弘文館、2021年)である。同書は「三方よし」という用語について次のように解説している。「「三方よし」という用語は近世には存在せず、あくまでも後世に造語されたものであり(後略)」(21頁)と、「三方よし」用語の江戸時代における存在を完全否定している。残念ながら、あまりにも早計に失した判断であるといわざるを得ない。

2020年4月4日土曜日

近江商人と災厄


               近江商人と災厄             末永國紀

                           

 人の世に、災厄は付きものである。日本史をみても、災難や災害は数知れない。江戸時代については、災厄を記録した古文書が大量に残っている。

 集団発生する流行病である疫病についての記録も数多くある。幕末から明治にかけての疫病の中でもコレラは大きな災厄であった。安政5年(1858)のコレラの猛威は、罹患したら3日で死亡する致死率の高さから「三日コロリ」とも呼ばれた。この年の流行は長崎から始まり、関西地方から東海道を経て7月に江戸に入り、8月に大流行した。死亡者は江戸だけでも3万人に及んだ。

 このコレラ流行は、安政5年刊の金屯道人編『安政箇労痢(ころり)流行記』にまとめられている。江戸では町ごとに50人から100人の死者があり、火葬しきれない棺が山積みになった。溢れる棺と病人のために、江戸では妖怪のもたらした災厄として流言飛語(デマ)が飛び交った。

江戸のコレラは9月に入ると衰えたが、小さな流行を各地で繰り返し、文久2年(1862)に再度大流行した。この年は夏にハシカの流行とコレラの流行が重なり、安政5年の数倍の死者が出た。

この文久2年の疫病流行に際しては、幕命によって杉田玄端らが、オランダの医書を翻訳し、『疫毒予防説』を出版した。同書でのコレラなどの疫病の予防法は、室内での空気循環を心掛け、身体と衣服を清潔にし、適度の運動と節度ある食を摂りながら堅実な生活を送ることであった。

 近江商人の史料で安政五年の「三日コロリ」を詳しく記録しているのは、小杉元蔵である。元蔵は天保8年(1837)の生まれで、神崎郡位田村の小杉甚右衛門家へ丁稚奉公に入り、15歳で若狭への初めての持下り商いに出向いた。

 元蔵は、商いの記録を『見聞日録』という日記に残している。三日コレラの大坂での状況は、8月半ば頃から病勢は盛んになり。月末には日に数百人の葬礼があったという。その他、京都や丹波丹後での流行病の様子を詳述している。

 幕末には、政治、経済、社会ともに全体として騒然とした世の中だったので、疫病によって商績が特に落ち込んだという史料にはあまり接しない。近江商人の場合も、出店から本宅への報告の中で世間の情報が報知されるくらいである。

ただ、この時期の近江商人の家訓には、予期せぬ災難に出遭った時の心構えが条文に盛り込まれているところに、災厄の多かった世情が反映している。

 神崎郡の外村与左衛門家の安政3年『心得書』と塚本定右衛門家の明治2年(1869)『家内申合書』を採り上げてみよう(以下、末永國紀『近江商人―現代を生き抜くビジネスの指針』中公新書より引用)。

 『心得書』の第29条には、人の世に付きものの災厄に出遭った場合の対処について、次のように諭している。

  天災変事これあり、計らざる損失これあり候とも、深く驚き申すまじく、後日の心得次第にて、また幸の儀これあるべく、なおまた図らざる吉事あるとも強ひて喜ぶべからず、人間万事塞翁の馬、自然後日変あるべき事を兼ねて思案いたすべし

 正道を踏んで商売に励んでいても、天災変事は不時に襲ってくるものである。

思わぬ天災とか災害というものは、人生に付きものであるのと同様に、商売に

おいても同じである。そうした災難を避けることはできない以上、たとえ不運

にして不慮の出来事に出くわしても、「深くは驚くな」と諭している。また、反

対に予期しない吉事があってもあまり喜ぶものではない。人間の吉凶は塞翁が

馬と同様に簡単に定めがたいものだからである。肝心なことは、災難を恐れた

り嘆いたりするよりも、災難はこの世に付きものであると日頃から心得ておき、

心の準備をしておくことが大事であるというのである。平常心を保つことと、

そのための心構えを説いたこの条文は、商いばかりでなく日常生活にも通じる

側面を持っているといえよう。

 同様に、災厄に出くわしたときの対応について教え諭したものとして、塚本

定右衛門家の『家内申合書』に次の条項がある。

  すべて物ごと手堅く致し候とも、思ひの外なる損失来る事あるものに候、古今の歴史に鑑みて知るべし、いかなる因によりてか、いかなる縁によりてか、道を守る善人も窮することのあるも世の習ひに候へば、その不仕合の重なりし時に及びても、常々の心を乱すべからず、必ず道に背き、規則を越るなどの事有るまじく候、投機商類似を羨むべからず、一時に利得を得んとして、却って多分の損失をまねく事あり、深く恐るべし、商家の極意は信用を重んじ、内外の好評を得るにあり、ただ我身を慎み諸事(つづ)めにし、ますます稼穡(かしょく)をつとむべし、然れば家内和合して、天道に合ひ気運徐々に開くべし、永久の心得を相続する人この(ことわ)りを知るべし

 堅実に商売をして居ても、予想外の損失を蒙ることがあり、いかに道を守っ

てきちんと生活しているような善人であっても、不幸が連続してやって来て、

どうにもならなくなることがあるものである。その時は、ヤケになって平常心

を忘れてはならない。一発逆転を狙って賭事、相場事に手を出しても、逆に損

失を大きくするだけである。商家の極意は、信用を重んじて内外から好評を得

ることである。不運のときに大事なことは、戦線を縮小し、身を慎み、家の者

は互いに和合して、ひたすら家業に励みながら時節の到来を待つことである。

2020年2月3日月曜日


English Language Edition PrefaceThe STORY OF JAPAN’S OHMI MERCHANTSThe Precept of Sanpo-yoshi

 

My research into the Ohmi merchants, who can be called the originators of Japanese-style management, seeks to better understand the unique aspects and universality of Japanese-style management by discovering, analyzing and compiling papers on the historical documents found in the former homes and warehouses of merchants.

The Ohmi merchants have a long history. In Japan, the mercantile industry made its first appearance around the 12th century. From the very beginning, the farmers of the Ohmi region served as zashonin (Guild merchants) merchants who held special rights, and traded with the regions neighboring the Ohmi province during the agricultural off-season. The dedicated Ohmi merchants we know today appeared at the end of the 16th century. From that point onward, the Ohmi merchants expanded their trading territory throughout all of Japan, and even developed markets on the Asian continent and North and South America after the conclusion of trade treaties with the western powers in 1859. Today, many of the oldest companies in Japan can trace their roots to the Ohmi merchants.

In being chosen to become part of the “JAPAN LIBRARY” published by JPIC, Three-Way Satisfaction – The Story of Japanese Ohmi Merchant will be the first English-language publication in the long history of research into the Ohmi merchants. I am thrilled the achievements of the Ohmi merchants, which covered a vast geographical area and are still felt today, will now have a chance to be known in throughout the world.

The original Japanese-language edition of Three-Way Satisfaction – The Story of Japanese Ohmi Merchant was written with the general public of Japan in mind, which meant many aspects of common knowledge in Japan required no explanation. That knowledge is not common outside Japan, however, and I therefore thoroughly reviewed the text of the book for the English-language edition, revising difficult-to-understand passages, adding new passages to provide additional background not found in the original version,  and giving annotations to aid greater understanding.

Long-term sustainability, rather than the pursuit of profit, forms the very essence of Japanese business. This point is starkly different from what is taught in U.S. university and graduate school business management courses, and may accordingly cause some initial bewilderment. That being said, while the principle of Corporate Social Responsibility, CSR, is seeing increased adoption in businesses globally today, there is no doubt that some corporations outside Japan have also long adhered to principles similar to the sanpo-yoshi  triple win philosophy of the Ohmi merchants, who founded their practices on the tenets of Buddhism.

In presenting the achievements of the Ohmi merchants, who devoted themselves to organizational sustainability, refrained from charging high interest rates and placed the common good ahead of profit, it is my wish that this book will spark new interest in Japanese-style management and provide hints for the direction of business activities going forward.

                          Kunitoshi Suenaga

at Seiran-tei, Kyoto

2018年2月4日日曜日

近江商人のネットワーク構築と社会貢献

中井家の乗合商い

 
近江商人は、通常複数の出店を持ち、出店からさらにその枝店を広げる場合もあった。家によっては、10を超える出店・枝店を設けることも少なくなかった。乗合商い、または組合商いとよばれた合資形態の多店舗展開の仕組みと機能を中井源左衛門家と矢尾喜兵衛家について取り上げてみる。中井家は初代から四代目までに合計21の出店・枝店を開いた。そのうち乗商いという共同企業の形態をとった出店は、東北から九州にわたった12の店舗である。

 これらの乗合店のうち、後に中井家の宝庫となった仙台店を取り上げる。中井家では、生糸・古手(古着)・繰綿の諸国産物廻しを構想して、明和6年(1769)に、仙台、伏見、後野の3店の同時開店方針を打ち出した。そのための資金調達方法として他人資本の導入を図る必要が生じた。仙台店の資本金は5000両、出資者は5人、損益分配の持ち分比率を全体で20分とした。

出資者の内訳は、初代源左衛門(3375両、135厘持ち)・矢野新右衛門(500両、2分持ち)・井田助右衛門(500両、2分持ち)・杉井九右衛門(3122分、125毛持ち)・脇村宗兵衛(3122分、125毛持ち)である。共同出資者の矢野・井田・脇村・杉井は、中井家の縁者や取引先などであった。天明元年(1781)までの10年間の配当金総計は、6757両、年平均配当率は877%であった。その後、天明の飢饉や仙台藩札の不通のなどの災厄が重なって源左衛門以外の者は出資金を引き揚げたので、仙台店は中井家の単独経営になった。

矢尾家の乗合商い

 
矢尾喜兵衛家は、寛延2年(1749)に武蔵国秩父(現・埼玉県秩父市)で、酒造業と日用品の小売業・質屋業を始めた。16の出店を関東地方に展開し、そのうち9店は酒造商、3店は乗合店であった。矢尾家の酒造業を中心にした支店網は、酒株を持つ地元の有力者から酒株と一緒に酒蔵、酒道具、店舗を居抜きで借り受け、奉公人を支配人として送り込む方式で形成された。このやり方であれば、固定設備に費用のかかる酒造業でも、少額の資本で開業でき、乗合店ならもっと少なくて開店が可能となる。

このような乗合店方式による多店舗展開は、適切な経営管理を必要とした。多店舗の経営管理のために開発採用されたのが、事実上の複式簿記である。商家で最も大事な帳簿は、仕入れと販売と一切の金銭出納を記し大福帳である。まず大福帳から店卸帳をつくり、さらに近江の本宅への決算報告のために店卸目録が作られた。中井家も矢尾家も、店卸帳や店卸目録の損益は、貸借対照表と損益計算書に相当する二通りの計算によって算出され、複式簿記の原理で計算されている。他の近江商人の大店でも、同じ記帳方式であり、近江商人の簿記法は、鴻池や三井に優るとも劣らない最高水準に達していたから、当主は遠国の出店を支配人が持参する店卸目録を通して管理できる仕組みになっていた。

商人団体と定宿制

 
行商を営業活動の原点とした近江商人は、安全な旅商のための方策を考え出して、旅の組織化を図った。その一つが行商先別あるいは出身地別に結成された商人団体である。両浜組は北海道へ進出した商人団体であり、栄九講は九州を商圏にした団体である。この種の商人団体の目的は、競争を避け、権益や商権の確保、相互扶助にあった。

 代表的な商人団体に、売掛金回収機能と特約旅館制度を2本の柱とする日野大当番仲間(ひのだいとうばんなかま)がある。構成員は明和7年(1770439人、明治10年(1877)でも241人であり、他に類例をみない息の長い団体であった。日野商人の団結には二つの柱があった。一つは日野大当番仲間が、売掛金返済訴訟において江戸幕府へ直に上訴できる法的手続きを明記した規定をもっていたことである。政治的支配の異なる遠国に商圏を張った近江商人にとって、債権の確保は最大の関心事であった。もう一つの柱は、中山道と東海道での特約旅館制度であった。特約旅館は、「日野商人定宿」の看板を掲げ、長旅を続ける近江商人に心身の安らぐようなサービスを提供すると同時に、取引の利便性を与えた。

 社会的貢献

 
本宅を近江に維持して全国を活動舞台とした近江商人は、地元や出店を設置した地域住民への細やかな配慮を絶やさなかった。秩父に出店を開いた矢尾喜兵衛家の四代目当主は、開店後100年以上を経た安政年間になってもなお、自分達は外来者であることを忘れずに、品行を方正にしなければならないと店員を諭し、普段から秩父の住民への施米や施金に努めた。近江商人の社会公共のために尽くした陰徳善事は、数えるいとまもないが、わずかに瀬田唐橋の一手架け替えと、天保飢饉時に敢行された飢饉普請を紹介しておこう。

中井正治右衛門は、文化12年(1815)に幕府に願い出て、古代以来最も重要な瀬田唐橋を独力で架け替え、将来にわたっての架け替え基金を寄付した。工事と基金の総計は3000両であり、今日であれば100億円にも相当する。

北海道松前に出店し、漁業経営で産をなした藤野四郎兵衛家は、天保の飢饉時に、松前では数千俵の米の施与や原価販売をおこなう一方、郷里の近江でも住宅の改築と寺院仏堂の修築工事を実施した。工事着工を聞き付けた領主の彦根藩は、他人の難儀を顧みない身勝手な振舞いとして、役人を派遣して差し止めようとしが、四郎兵衛の企図が窮民救済のための起工にあることを知って、逆に嘆賞したという。郷里の人々はこの人助けの美挙を「藤野の飢饉普請」と呼んで長く称えた。

以上のような近江商人の義挙は、収益性と社会性の両立という観点から、法令順守や環境保護とともに社会貢献を重視して、企業活動そのものを通して社会との良き関係を維持することが必要になってきているという、今日のCSR(企業の社会的責任)の考え方の先駆けといえる。

2016年11月1日火曜日

初代伊藤忠兵衛の大阪贔屓と京都嫌い


初代伊藤忠兵衛の大阪贔屓(ひいき)と京都嫌い

 

 初代伊藤忠兵衛(18421903)にとって、明治5年(1872)の大阪開店は、個人的には一代の大勝負であったが、全体的な時代の流れで見ると、大阪を目指した多くの近江商人団の一員としての進出、という側面を持っていた。しかも、気取らず、本音で語り、迅速を尊ぶ大阪の土地柄は、生誕した村の江州(ごうしゅう)(べん)をもって終始するような真率で気の早い自然人であった忠兵衛にとって、気質的にも馴染(なじ)みやすい所であった。

近世の大阪は、摂津の平野・堺・八尾(やお)・城州八幡(やわた)・伏見・近江等の周辺地域から集まってきた人々によって作られた城下町なので、(うじ)素性(すじょう)は重視されない傾向にあった。さらに、城下町というにもかかわらず、上町(うえまち)台地の北部に位置する大坂城周辺は街の中心地ではなく、都心は町人居住地の船場(せんば)あったしたがって、町の雰囲気には17世紀後半の大坂で活躍した俳人小西来山(こにしらいざん)が、「お奉行(ぶぎょう)の名さへ覚へずとし暮れぬ」、と詠んだような伸びやかさがあった。

反対に忠兵衛は、大の京都嫌いであった。御所を中心に発展した伝統の街であるだけに氏系図や老舗(しにせ)が重視され、本音と建前を巧みに使い分け、外来者への警戒心の強い京都に強く反撥した。

それはを店印とする伊藤京店が、四条(しじょう)室町(むろまち)下ルに移転新築した際のエピソードからもうかがえる。移転新築を決行する前に、室町(たこ)薬師(やくし)下ルの旧店舗地で新築しようとしたが、大工の不注意から小火を起こしてしまい、隣家の主人から苦情が出た。その口上は

「大体さんはお店の人が若過ぎる、あんな人に任せてゐると自然火事も起るし、吾々は心配でたまらぬ」

というものであった。当主の忠兵衛自身による陳謝にもかかわらず、失火の原因を店員の若さに帰してとがめられたことに立腹した忠兵衛は、その場で店舗の移転新築を決断したのである。忠兵衛は、京都の他に比類のない工芸の技術力を認めて京店を設置したものの、京都とは肌が合わなかった。

新参者の忠兵衛を容れる包容力は、京都よりも大阪の方がはるかに大きかったのである。息子の二代目忠兵衛は、父初代忠兵衛の大阪贔屓を次のように述べている。

 

 父が如何に大阪を高く評価し、期待したか、仕事や交友は申すに及ばず、夏の火の見(やぐら)暮しから川涼み、夜店、植木市、さては十日(とおか)(えびす)の雑踏にまで揉まれに行く。第二の故郷と言ふよりも大阪が日本中の力を持ってをる様に惚れ込み、また働きよかった様である。

 

働き易い仕事場を提供した大阪への、忠兵衛の深い愛着と(なつ)かしみの伝わる思い出話である。店員の懐旧談にも、店総出の夏の涼み船の話が出てくるので、主従ともども大阪の風物詩を愉しんだのである。

 
末永國紀「近江商人初代伊藤忠兵衛の大阪時代」(大阪商業大学商業史博物館『紀要』第17号、平成28年、所収)