2020年4月4日土曜日

近江商人と災厄


               近江商人と災厄             末永國紀

                           

 人の世に、災厄は付きものである。日本史をみても、災難や災害は数知れない。江戸時代については、災厄を記録した古文書が大量に残っている。

 集団発生する流行病である疫病についての記録も数多くある。幕末から明治にかけての疫病の中でもコレラは大きな災厄であった。安政5年(1858)のコレラの猛威は、罹患したら3日で死亡する致死率の高さから「三日コロリ」とも呼ばれた。この年の流行は長崎から始まり、関西地方から東海道を経て7月に江戸に入り、8月に大流行した。死亡者は江戸だけでも3万人に及んだ。

 このコレラ流行は、安政5年刊の金屯道人編『安政箇労痢(ころり)流行記』にまとめられている。江戸では町ごとに50人から100人の死者があり、火葬しきれない棺が山積みになった。溢れる棺と病人のために、江戸では妖怪のもたらした災厄として流言飛語(デマ)が飛び交った。

江戸のコレラは9月に入ると衰えたが、小さな流行を各地で繰り返し、文久2年(1862)に再度大流行した。この年は夏にハシカの流行とコレラの流行が重なり、安政5年の数倍の死者が出た。

この文久2年の疫病流行に際しては、幕命によって杉田玄端らが、オランダの医書を翻訳し、『疫毒予防説』を出版した。同書でのコレラなどの疫病の予防法は、室内での空気循環を心掛け、身体と衣服を清潔にし、適度の運動と節度ある食を摂りながら堅実な生活を送ることであった。

 近江商人の史料で安政五年の「三日コロリ」を詳しく記録しているのは、小杉元蔵である。元蔵は天保8年(1837)の生まれで、神崎郡位田村の小杉甚右衛門家へ丁稚奉公に入り、15歳で若狭への初めての持下り商いに出向いた。

 元蔵は、商いの記録を『見聞日録』という日記に残している。三日コレラの大坂での状況は、8月半ば頃から病勢は盛んになり。月末には日に数百人の葬礼があったという。その他、京都や丹波丹後での流行病の様子を詳述している。

 幕末には、政治、経済、社会ともに全体として騒然とした世の中だったので、疫病によって商績が特に落ち込んだという史料にはあまり接しない。近江商人の場合も、出店から本宅への報告の中で世間の情報が報知されるくらいである。

ただ、この時期の近江商人の家訓には、予期せぬ災難に出遭った時の心構えが条文に盛り込まれているところに、災厄の多かった世情が反映している。

 神崎郡の外村与左衛門家の安政3年『心得書』と塚本定右衛門家の明治2年(1869)『家内申合書』を採り上げてみよう(以下、末永國紀『近江商人―現代を生き抜くビジネスの指針』中公新書より引用)。

 『心得書』の第29条には、人の世に付きものの災厄に出遭った場合の対処について、次のように諭している。

  天災変事これあり、計らざる損失これあり候とも、深く驚き申すまじく、後日の心得次第にて、また幸の儀これあるべく、なおまた図らざる吉事あるとも強ひて喜ぶべからず、人間万事塞翁の馬、自然後日変あるべき事を兼ねて思案いたすべし

 正道を踏んで商売に励んでいても、天災変事は不時に襲ってくるものである。

思わぬ天災とか災害というものは、人生に付きものであるのと同様に、商売に

おいても同じである。そうした災難を避けることはできない以上、たとえ不運

にして不慮の出来事に出くわしても、「深くは驚くな」と諭している。また、反

対に予期しない吉事があってもあまり喜ぶものではない。人間の吉凶は塞翁が

馬と同様に簡単に定めがたいものだからである。肝心なことは、災難を恐れた

り嘆いたりするよりも、災難はこの世に付きものであると日頃から心得ておき、

心の準備をしておくことが大事であるというのである。平常心を保つことと、

そのための心構えを説いたこの条文は、商いばかりでなく日常生活にも通じる

側面を持っているといえよう。

 同様に、災厄に出くわしたときの対応について教え諭したものとして、塚本

定右衛門家の『家内申合書』に次の条項がある。

  すべて物ごと手堅く致し候とも、思ひの外なる損失来る事あるものに候、古今の歴史に鑑みて知るべし、いかなる因によりてか、いかなる縁によりてか、道を守る善人も窮することのあるも世の習ひに候へば、その不仕合の重なりし時に及びても、常々の心を乱すべからず、必ず道に背き、規則を越るなどの事有るまじく候、投機商類似を羨むべからず、一時に利得を得んとして、却って多分の損失をまねく事あり、深く恐るべし、商家の極意は信用を重んじ、内外の好評を得るにあり、ただ我身を慎み諸事(つづ)めにし、ますます稼穡(かしょく)をつとむべし、然れば家内和合して、天道に合ひ気運徐々に開くべし、永久の心得を相続する人この(ことわ)りを知るべし

 堅実に商売をして居ても、予想外の損失を蒙ることがあり、いかに道を守っ

てきちんと生活しているような善人であっても、不幸が連続してやって来て、

どうにもならなくなることがあるものである。その時は、ヤケになって平常心

を忘れてはならない。一発逆転を狙って賭事、相場事に手を出しても、逆に損

失を大きくするだけである。商家の極意は、信用を重んじて内外から好評を得

ることである。不運のときに大事なことは、戦線を縮小し、身を慎み、家の者

は互いに和合して、ひたすら家業に励みながら時節の到来を待つことである。