2014年1月20日月曜日

石田梅岩と老舗大国



消費税導入と梅岩


日本で始めて消費税を導入するという決断を下した竹下登首相は、昭和63年(1988)の所信表明演説で、消費税の正当性を訴える不退転の決意を「たとえ辻立てして鈴を振りながらでも」と表現した。このフレーズは、石田梅岩の言葉を典拠にしたものである。

梅岩は、江戸中期の人。若年から、人には人の道のあることを世間の人々に説き聞かせたいという、一町人の身ながら大それた願望を抱いていた。その人生の大望を、「もし聞く人なくば、たとえ辻立してなりとも、我が志しを述べんと思えり。願うところは、一人なりとも五倫の交わりを知り・・・たとい千万人に笑われ恥を受くとも、厭うことなき志しなり」という覚悟のもと、ついに実現した人物である。

梅岩を創始者とする心学を、陽明学などと区別して石門心学という。石門心学は、庶民階級のみでなく武士階級にまで広まり、江戸時代においてもっとも広範な影響力をもった社会教化運動である。石門心学が、何故それほどまでに受け入れられたのかということを解く鍵は、梅岩の思想練成の過程にある。

出身と経歴


梅岩は、貞享2年(1685)に丹波国桑田郡東懸村(現、京都府亀岡市)の名の有る農家に生まれた。通称は勘平である。父親は、厳格で廉直な人柄であったという。次男であったので、11歳のとき京都に出て丁稚奉公したが、主家が傾いたので15歳で実家へ帰り、農業を手伝った。23歳となって再び京都の呉服商黒柳家へ中年奉公に出たときは、通常の商人としての出世コースを目指さず、神道に帰依して「もし聞く人なくば、鈴を振り町々を巡りてなりとも人の人たる道を勧める」ことを宿志として抱いていた。

奉公中の梅岩は、願望は願望として、店務に励み、番頭にまで立身するのである。梅岩は自分の性格について、幼年の頃から友達にも嫌われるほどの生まれながらの理屈者で、凝り性だったと述懐している。そのためもあってか、20代の半ば頃に、鬱病に罹っている。欝を晴らすために、人に薦められて遊興の道にも踏み込んだ。律義者にありがちな、人生の享楽や快楽を否定する謹厳実直一点張りではなかったのである。この遊興の体験が、梅岩を人情の表裏に通じさせ、商家奉公の経験とあいまって、石門心学を庶民に受け入れられやすくする素地となった。

奉公の身ではあっても、出身・学歴・境遇からすればほとんど痴人の夢に等しい人々を教導したいという梅岩の想いは、一層強固になっていったと思われる。何故なら、それは結婚を見送り、生涯独身を通したことからも窺われる。梅岩自身、家庭を持たなかったことについて、「人に道を説く宿志を抱いている身であるが、能力に乏しい自分は、孔孟のような多力の人と違い、家族を養いながら道を説く余力はない」と考えたからであると述べている。

主体的思考の重視


梅岩は多忙な奉公生活のかたわら、寸暇を惜しんで読書したという。しかし、読書の傾向は不明であり、誰を師匠としたのか、どのような思想遍歴を経たのかということは分らない。独学であったと思われる。

独学と体系的学問を学ぶこととのメリット・デメリットは、それぞれにある。師匠について体系的に学問を学べば、無駄なく教理解釈を身につけられるが、逆にドグマから逃れ難くなる場合も生じる。独学の場合は、一面では下手をすれば雑学に陥る危険性もあるが、他面では主体的な読書によって自由な思想を形成できる可能性がある。梅岩が独学であったことの石門心学への影響は、神道・儒学・仏教・老荘思想を習合させることによって、独自の世界観を築き得たことである

諸思想の習合と、20代からの20年間の町人社会の実体験とがあわさって、梅岩の思想は観念論に堕することなく、平易で個性的な特色をもつことになったのである。このような独自性は、梅岩の思想練磨の態度とも関連している。    

梅岩の唯一の師匠として判明している小栗了雲は没する間際、枕頭の梅岩に対して、註を付した秘蔵の書物を譲与しようとした。このとき梅岩は、「我れことにあたらば、新に述ぶるなり」と、きっぱりと断ったという。いわば、師の臨終の席で、その古今伝授の申し出を拒絶したのである。今日でも人情において忍びないものがあるが、逆に梅岩が尋常でない覚悟のもとに、いかに自分で思考することを重視していたかということが知られる。

享保14年(1729)、思想変遷と練磨の末に大悟して新境地を得た梅岩は、黒柳家を辞し、開悟の喜びを人々に分かち与えるために、京都市内の車屋町御池上ルに講席を開いた。45歳であった。当初は、聴講者がなかったり、2、3人であったりしたが、初志貫徹の熱意は、次第に市内で評判となり、享保20年には、1ヶ月の連続講義を実施するまでになった。元文3年(1738)、弟子とともに出かけた有馬温泉での合宿によって、主著『都鄙問答』が完成し、石門心学の根本宝典となった。晩年に『倹約斉家論』を著し、60歳で没した。

実践道徳


梅岩は、単に人間の本性を知るのみで満足したり、自分一個の安心立命に甘んじたりすることなく、実践こそ根本問題であることを身をもって示した。貧窮者や罹災者への施行においても、積極的に行動した。だから、実践をともなわない机上でのみ学問を説くことを徹底して軽蔑した。

たとえば、子弟に学問をさせた商家の親が子供のことを「家業を疎かにし、我れを高ぶり、人を見下し、親さへも文盲のように思う顔色が見える。しかも親の方も少しにても学問した者として、遠慮するのでますます始末が悪い」と歎くのに対して、梅岩は次のように述べた。「折角学問をしても、そのようにケッタイな人間ができるのは、先生の学者が間違っているからである。そのような学者は、長年にわたって文字を教え、書の心を得ない文字芸者に過ぎない。真の学者は、心に得て身に行うものでなければならない」と喝破している。

正直と倹約


梅岩は、実践道徳としての正直と倹約を何よりも重んじ、商人の職分と営利活動の社会的正当性を、「天下の財宝を通用して、万民の心をやすむる」仕事であり、営利は「商人の売利は士の禄に同じ、売利なくば士の禄無くしてつかえるがごとし」と主張した。商工は市井の臣であり、商人の職分は武士や農民と遜色はないのであり、そこに商人の社会的意義があるというのである。

このような主張に説得力をもたせるために梅岩は、商業道徳の根本を正直においた。経済社会が成立するには、所有関係と契約関係が尊重されなければならない。そのことを梅岩は、「我が物は我が物、人の物は人の物、貸したる物はうけとり、借りたる物は返し、毛筋ほども私なくありべかゝりにするは正直なる所なり」と述べ、信用の根本が正直にあるとした。

人間本来のこの正直の心をとりもどすには、倹約を身に着けねばならないことを、梅岩は人間存在そのものから説いている。「天地の間に生を受ける者、やしないなくして有るべからず、一日も食わねばねらぬこの身なり」であるからこそ、物を無駄にすることは厳に慎み、物を活かすように倹約しなければならないというのである。さらに、物を活かすよりも人を活かすことを重視して、他人に迷惑をかけない正直は、他人の心を煩わさないという意味での倹約に通じるとした。

梅岩の活動は、重農抑商をスローガンとする八代将軍吉宗の享保改革の最中であった。商業活動の受難期に、人間存在そのものから発して、敢然として経済社会と商人存在の正当性を主張した梅岩と石門心学は、現実の商業界では近江商人などによって実践され、時代を越えて今日の老舗大国日本を生み出す歴史的源泉となったのである。

『人間会議』