2012年4月21日土曜日

釜屋小森久左衛門家の歴代とお助け普請

関東平野は雄大です。その真ん中に位置する埼玉県東部の現地に立つと、その広さを実感できます。北西に上毛(じょうもう)三山という、群馬県の名山がかすかに遠望できるだけであり、あとは一面の平野。そのなかを荒川と利根川の二大水系がゆったりと流れている。関東平野というよりも、「坂東(ばんどう)」という語感がピッタリくるような風景で
この平野部に、近江商人、なかでも蒲生郡日野を出身地とする行商人の姿が見られるようになるのは、江戸中期の18世紀半ば頃からのことです。(もち)(くだ)り商いという行商で成功すると、要地を選んで出店を構え、彼らの多くは二大水系に沿って醸造業を営。中井源左衛門・矢野新右衛門・矢尾喜兵衛・鈴木忠右衛門・横田庄右衛門・島崎利兵衛などそう
 埼玉県騎西(きさい)町(現、加須市)にある酒造業㈱釜屋の初代小森新八もその一人で。新八は、蒲生郡日野町大谷の農家の次男として生れ寛延年間(174850)に持下り商いを開始し、中山道を経由して関東との間を往復しました。
宝暦5年(1755)に利根川水系の武蔵国北埼玉郡騎西町の町場に釜屋新八の屋号で出店を開き、水油・陶器・鍋釜・質屋を商ったのです。しかし新八は、明和2年(1765)に病死しました。いまだ独身であったので、兄の久左衛門が近江から駆けつけて葬儀を営み、騎西の淨楽寺に葬りました。
弟の跡式を調べた久左衛門は、自ら二代目として経営を引き継ぐことにしました。明和5年に隣村の金兵衛から酒造場を5年間の契約で借り受け、酒造業を開始したのです。借料は1年に付き52分でした。翌年には、その3石の酒造株とともに、酒造場と酒造道具一式を32両で買い取りました。越後(えちご)杜氏(とうじ)による酒造業は順調に発展し、「力士」と命名された酒は、天明5年(1785)には酒造978石に達するほどに成長したのをみても、二代目は商才があったといえます。天明6年に隠居し、享和元年(1801)に76歳で没しました。
三代目は、宝暦11年(1761)に日野町大谷の木瀬利右衛門の次男に生れ、天明5年(1785)に二代目小森久左衛門の養子となりました。三代目は、享和2年に行田(ぎょうだ)町の与右衛門から酒造場を10年契約で借り入れて出店とし、関東の紅花を京都に上せる紅花商を開始するなど、家運の繁栄に貢献しました。没年は文政7年(1824)、享年64.
子を亡くした三代目は、日野町木瀬忠右衛門の次男を養子に迎え、四代目久左衛門としました。四代目は、生来温厚にして利発であり、文人的素質に優れ、書道や茶道で頭角を現し、琴斎とも号する教養人でした。商売においても、天保4年(1833)に質部門を廃止し、醤油醸造業をはじめるなど商才を発揮しました。
しかし、好事魔多しという出来事が生じ、天保5219日に騎西町のほとんどを焼き尽くす火災に類焼したのです。釜屋は酒造庫1棟を残して店舗・倉庫・家財を焼失してしまいました。再建に苦心を重ねた四代目でしたが、復興資金の欠乏におちいり、やむなく名主善兵衛を介して土地の代官所に資金融通を歎願し、御用達金300両の下付を受けることに成功しました。
外来商人に対するものとしては稀有な待遇でした。このことは、釜屋が当時すでに地域にとって不可欠の存在となっていたことを物語っているといえます。それは例えば、寛政13年(1801)春の騎西町の火災の罹災者10人が、釜屋に30両の助成金を要請したり、年不詳ながら地元の町場の生活難渋者に釜屋が助成金として金63分と銭73600文を名主新井善兵衛に渡したりした文書が残っていることからもいえることです。
店の再建を果した四代目は、天保812月に忍藩領の伊勢国三重郡大屋知村(現、四日市市)に酒造場を開いて出店とし、西沢源右衛門を支配人にして経営にあたらせるなど事業を拡張しました。四代目は天保129月に57歳で没。
後を継いだ五代目は、安政6年(1859)に45歳で若死にしたので、嘉永2年(1849)に日野町大谷に生まれた六代目が叔父栄治郎の後見を得て、後継しました。慶応3年(18676月に京都大宮通り仏光寺で酒造業を買い取り、近江屋新兵衛と称しました。
商売にとって困難な時期である幕末維新期を乗り切った釜屋は、明治19年(1886)に一大貯酒庫の建設にとりかかりました。それは、明治14年にはじまり5年間におよぶ松方デフレ政策による深刻な不況の影響が強く残っていた時代のことです。米麦・養蚕地帯であった騎西地方は、農産物の下落によって大打撃を受けていました。
釜屋は219日の地鎮祭の余興に、東京相撲の大関大達羽左衛門を招いて土俵入りを開催して近隣の人々の娯楽に供しました。総ケヤキ造り、二階建て、建坪200坪の貯酒庫は64日に棟上げを迎え、大工などの工事関係者の雇用は51人に上り、祝いの祝儀として配った米銭は、103人におよびました。不況時の起工であったため、難民救済の一助となり、この建築工事は、「釜屋のお助け普請」と呼ばれ、社会貢献として長く称えられるものとなりました。

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