2012年7月30日月曜日


近江商人と近江鉄道―辛苦是経営 



 今となっては、近江鉄道を創ったのは西武であるとかなりの人々が思い込んでいるようです。本当は、旧彦根藩士が発議し、明治の近江商人の資力によってかろうじて建設されたのであり、創業期の労苦は、文字通り「辛苦是経営」そのものでした。近江鉄道の産みの苦しみを振り返ることは、忘れられようとしている先人達の貢献を掘り起こす契機になることでしょう。



 一 創立の事情

明治二六年一一月二九日、近江鉄道の創立願書が、滋賀県在住の発起人四四名から滋賀県庁をへて逓信大臣黒田清隆へ提出されました。創立願書によれば、同鉄道は蒲生・神崎・愛知の三郡を横断し、世上に名高い江州米などの物産の運送とともに、伊賀伊勢・濃尾・加越とつながる交通頻繁な江州南部の発展を期するものでした。鉄道敷設予定地は、東海道線彦根駅を起点として、高宮・愛知川・八日市・桜川・日野・水口をへて関西鉄道深川駅に連絡する予定でしたが、深川駅への接続は後に貴生川駅接続に変更されて完成しました。

創立願書に添付された起業目論見書によると、資本金一〇〇万円で二六マイルの鉄道建設を予定しています。収支計画は、乗客と貨物の運賃収入は一六万七九〇〇円、営業支出五万四七五〇円、差引純益は一一万三一五〇円と見積もっています。営業係数は実に三三%という、きわめて甘い収支計算でした。

二万株のうち、六一五〇株の発起株を引受けた四四人の発起人は、すべて鉄道建設予定地から出ています。彦根町からの発起人には石黒務・林好本・堀部久勝らの旧彦根藩士の名前が見られます。近江商人として知られた人々としては、彦根の前川善平、愛知郡小田苅の四代小林吟右衛門、蒲生郡日野町の中井源三郎・小谷新右衛門・西村市郎右衛門・正野玄三・高井作右衛門・岡宗一郎・鈴木忠右衛門・藤沢茂右衛門などです。

同年一二月二日、彦根楽々園で発起人総会が開かれ、創立委員長に林好本、副委員長に中井源三郎が選出され、仮免状取得の請願運動のための上京委員として、正副委員長に加えて四代小林吟右衛門が選ばれました。林は現職の彦根町長であり、中井源三郎は著名な近江商人中井源左衛門家の分家です。小林吟右衛門家は、屋号を丁子屋、通称丁吟と呼ばれ、三都に出店を構え、領民として彦根藩と密接な関係のあった豪商でした。

近江鉄道建設において主導権を握ったのは、旧彦根藩士でした。丁吟の東京店から小田苅の本宅に宛てた当時の書簡でも、鉄道設立の主唱者であり、実際の奔走者は、旧彦根藩士の西村捨三や大東義徹であったことを知ることができます。西村は内務省土木局長、大阪府知事、農商務省次官を退官後、二六年一一月から北海道炭鉱鉄道の社長であった人物であり、大東は滋賀県選出の衆議院議員であり、三一年に大隈内閣の司法大臣となりました。彼らの働きかけに応じて、丁吟をはじめとする沿線の近江商人が発起人に参加したのです。

二七年七月二六日に仮免状が下付されたが、日清戦争のため創立事務は中断され、二八年一一月に株式募集が行われました。戦後の株式ブームのなかで募集株に対して二四倍の申込みがあり、最終的に二万株、一一四〇人の株主が確定しました。株主構成は滋賀をトップに大阪・東京・京都と続き、この上位四府県で全株主の九五・八%を占め、全株数の九八・九%が集中しています。

二八年一二月二四日、京都有楽館で創業総会が開かれ、役員が選出されました。

社長   大東義徹(東京府・一〇〇株)

専務   林好本(滋賀県・二五〇株)

    中井源三郎(滋賀県・二〇〇株)

取締役  西村捨三(東京府・一〇〇株)

    小林吟右衛門(滋賀県・二〇〇株)

    今村清之助(東京府・一〇〇株)

    正野玄三(滋賀県・二〇〇株)

    臼井哲夫(東京府・一二〇株)

監査役  阿部市郎兵衛(大阪府・一〇〇株)

    岡橋治助(大阪府・一〇〇株)

    下郷伝平(滋賀県・一〇〇株)

経営陣に名前を連ねた近江商人としては、専務の中井、取締役の小林のほかに、感応丸の製造販売で有名な日野の正野玄三取締役に加えて、発起人に参加していなかった七代阿部市郎兵衛と下郷伝平が監査役に選出されているのが注目されます。後に三一年五月から近江鉄道社長となる阿部は、神崎郡能登川の出身で、麻布商から産をなし、大阪で米穀肥料商を中心に運輸業や化学工業に活躍していた巨商です。下郷伝平は、長浜の出身で、持下り商いを出発点とし、米穀肥料商から製糸会社や銀行の経営者となり、当時は貴族院議員でした。



二 鉄道建設と開業まで

二九年六月一六日付で本免状が交付され、近江鉄道株式会社は本格的な建設工事を開始しました。当初、全区間を同時に建設する予定で資材や車輌類も一斉に発注したのです。二九年度後半期には、大倉組大阪支店へ外国製の鉄軌一八マイルと鉄桁四六張、機関車三台等を発注しました。客車・貨車類は大阪の福岡鉄工場へ発注しています。

建設費は、日清戦争後の物価上昇のため膨張し、第一期工事の彦根―八日市間が開通した三一年九月には、建設費累計はすでにほぼ一〇〇万円に達していました。三四年一月九日に全通式が挙行された段階では約一七五万円となり、予算の二倍近くになりました。経費膨張の最大の要因は用地買収費であり、同社の資金繰りを支出面でもっとも圧迫したのです。

この間、予想を大幅に上回って増大する経費のため、近江鉄道重役会(取締役会)は窮地に立たされ、打開策をめぐる対立のうちに重役の総辞職となり、三一年一月三〇日に新重役が選出されました。

社長   正野玄三

取締役  大東義徹

〝    阿部市郎兵衛

〝    下郷伝平

〝    小林吟右衛門

〝    西村捨三

〝    岡橋治助

〝    鈴木忠右衛門

監査役  中村惣兵衛

〝    浜崎永三郎

〝    高田吉兵衛

大東社長が平取締役となり、専務の林・中井が退陣したが、新取締役の岡橋・鈴木は四~五月中に辞任し、下郷も死去しています。したがって、事実上の経営陣は正野・阿部(同年五月一四日から社長)・小林・西村と、同年四月二八日に取締役となる広野織蔵でした。広野家は旧彦根藩士族であり、文久二年生まれの織蔵は京都に遊学し、帰郷後は第百三十三国立銀行に入行しました。広野は、近江貯蓄銀行や彦根商業銀行の設立に関与して頭取や取締役に就任し、三一年当時は第百三十三国立銀行の頭取を務める県下銀行界の重鎮でした。

新重役会は株式払込の続行と銀行借入によって建設資金の調達をはかったが、八日市―深川間の第二期工事は全面的に銀行借入に依存せざるを得なかったのです。       

三二年四月九日、大阪の北浜銀行(常務、岩下清周)から五〇万円もの借入契約に成功しました。斡旋したのは、三〇年一〇月に大阪築港事務所長に就任していた西村捨三であったと思われます。取締役として名を連ねている西村・正野・広野・小林・阿部が、北浜銀行からの債務について会社の連帯保証人となることを諾約することによって、はじめてこの多額の融資は可能となりました。

三三年三月には、工事完成のためにさらに三〇万円の追加資金が必要になり、種々交渉の結果、八月になって百三十三銀行をはじめとする滋賀県内の主要銀行一〇行と大阪の近江銀行・第百三十銀行の支店の合計一二行から、北浜銀行の場合と同様に近江鉄道重役の連帯保証が決め手となって、借入の内諾を得ることができたのです。借入の形式は、約束手形の割引という短期の融資形式でした。

こうして近江鉄道は、三三年一二月現在、北浜銀行からの五〇万円の借入を中心に合計六一万五〇〇〇円の銀行借入を背負い込むことによって、三四年一月九日の全通式を迎えることができたのです。



三 鉄道経営の不振

全通後の近江鉄道の経営は不振でした。その状況を損益勘定によって検討してみることにします。営業収入は全通後の三四年度にはじめて一〇万円に達した後、三九年まで同じ水準に停滞しています。一方、営業費は上昇傾向にあったので、その分だけ益金は減少しているのです。営業収入に対する営業費の比率である営業係数は、全通後は六二%から七〇%に上昇しました。

近江鉄道を他の同規模の鉄道会社と比較しても、近江鉄道の営業係数は高いのです。それは、営業費のせいではなく、収入が他に比べて極端に低いためだったのです。三四年度の乗客数六〇万人・貨物四万トンという水準は一向に改善されず、七〇万人台に達するのは大正七年度です。その時点でも貨物は四万トン台にとどまっていました。



四 銀行借入金返済の苦悩

このような経営不振の状況下において、近江鉄道の借入金返済は行われなければならなかったのです。そのため、同社重役会は一〇〇万円(二万株)の優先株発行をはかり、三四年三月五日の株主臨時総会で承認されました。しかし、大阪では銀行取付け騒ぎが発生するなど、金融情勢は最悪だったので、現株主から募ろうとした優先株への応募者はほとんどいませんでした。北浜銀行で割引いた約束手形五〇万円の返済期限も四月三〇日に迫ったので、重役会はとりあえず優先株の重役引受を決議し、五月二〇日の第一回払込金による返済まで北浜銀行に差押を猶予してもらうことになって、ようやく危機を脱しました。

五月六日の重役会では、二万株の優先株のうち五〇〇〇株を応募株とし、残り一万五〇〇〇株は、阿部六〇〇〇株・小林六〇〇〇株・正野一五〇〇株・広野一〇〇〇株・西村五〇〇株の重役分担とすることを決議しました。なかでも名義を分散させている小林吟右衛門関係の株は計六三五〇株に達しています。

一回五円当りの優先株払込は、三四年五月一七日の第一回払込以後、三七年一〇月二八日まで一〇回に分割して払込が進められました。そのため三四年九月には六九万一二五〇円であった債務手形も徐々に減り、三七年下期には社債発行も加わって銀行借入が完済されたのです。この間、普通株の減資が行われ、一回目は三六年一〇月二一日に普通株一〇〇万円を五〇万円に半減し、二回目は普通株五〇万円を一〇万円に減資しました。こうして、優先株の分割払込と普通株の大幅減資によって近江鉄道は、巨額の銀行借入金と過大な資本金の縮小に成功したのです。

しかし、多額の優先株を引受け、恐慌と不況下にあって相次ぐ払込み要請に応えていかなければならなかった近江鉄道重役陣の苦悩は大きかったのです。重役陣のうち、当初の優先株を持ちこたえたのは四代小林吟右衛門と七代阿部市郎兵衛だけであり、他の重役はかなり手放しています。三七年下期の一三万円の社債発行でも、大部分は取締役が引受けることになり、阿部市郎兵衛亡き後(三五年三月死去)、吟右衛門は最多額の三万八七〇〇円を引受けています。

 多数の優先株を保持し続け、多額の社債をも引受けた吟右衛門の資金源泉は呉服太物の東京店からの送金であした。その資金を東京店は、日本銀行をはじめとする第百・東京・住友・第十五・興業の各有力銀行から借入れたのです。吟右衛門による莫大な近江鉄道投資は、丁吟の東京における銀行からの資金調達能力に支えられて可能となったのです。

 社債発行によって近江鉄道は銀行借入を完済し、吟右衛門は会社のために無限責任を分担する重圧から解放された後、三八年四月二七日の株主総会で取締役に再選されたが、同年八月一三日に死去しました。資金調達とその返済の苦心と苦悩は、近江鉄道の対外的信用を支えていた阿部と小林の命を削るものとなったのです。旧彦根藩士のなかでただ一人取締役として残留し、背後から会社を見守ってきた西村捨三は、同年病を得て、「辛苦是経営」の石碑を残して、辞職しました。



 主要参考文献 丁吟史研究会編『変革期の商人資本』・布施善治郎『現代滋賀県人物史』・末永國紀『近代近江商人経営史論』・滋賀県経済協会『近江商人事績写真帖』・滋賀県神崎郡教育会『近江神崎郡志稿』

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