2013年5月14日火曜日

近江商人研究40年を振り返って―旅のススメ



旅のススメ

アーモスト大学へ


20123月から4月にかけて、約3週間のアメリカ東部への旅に出かけた。第一の任務は、同志社大学とマサチューセッツ州にあるアーモスト大学との学術交流交換教員として「近江商人の三方よし」を講じることであった。

この旅は、任務もさることながら旅自体が初めての土地であったため、とても刺激的であった。3週間を異郷の地で、しかも独りで過ごす体力的な自信がなかったので、万一に備えて介添えのために妻を同伴した。

アーモストは、ボストンから130キロほど内陸にある小さな大学町である。関空からニューヨークのケネディ空港まで直行便で飛んでも、アーモストにたどり着くには、別の空港に移動してローカル便に乗り、さらにバスか乗合タクシーを利用するしかない。そこで、ニューヨークとアーモスト間は往復ともに予約タクシーを使うことにした。かなり大胆な計画である。

広大なケネディ空港で、いかにして予約のタクシーと出会うかが問題であった。幸いにも、「末永教授」、と英語で大きく書いたプラカードを掲げた運転手のお蔭で、すぐに見つけることができた。アーモストの宿舎、ロード・ジェフリー・インまで荷物紛失の危険や積み替えの手間もなく、コネティカット州を経由する3時間半の旅は快適であった。帰路は大学の事務局の斡旋で、ニューヨークのホテルまで直行のタクシーを手配できた。往路のタクシー料金は、チップ込みで500ドルであったが、帰路は同じ旅程なのに299ドルで済んだ。

講演後は、同志社がアーモスト大学へ寄贈した日本庭園「有志園YUSIEN」を見学したり、大学図書館で校祖新島襄の英文真筆にもふれたりした。アーモストの街の人々も、同志社とアーモスト大学との関係を承知していたことは驚きであった。この絆は同志社の強みであり、それを一層強める必要性を痛感した。

 

ニューヨークにて


一週間滞在したニューヨークは、セントラルパークの木々が新芽や若葉の季節を迎えたばかりであり、陽光と活力に満ちていた。ホテルはマンハッタンのダウンタウンにとったので、名所はほとんど徒歩圏内にあった。タイムズスクエア―は深夜近くになっても老若男女、様ざまな人種で沸き立っていたし、ブロードウェーのミュージカルは迫力満点であった。

近江商人の末裔としての日系カナダ移民も研究対象にしている私にとって、特に興味深かったのは、自由の女神の建つリバティーアイランドの隣のエリス島を訪れたことである。エリス島は、移民の島である。ヨーロッパからの移民検問所のあったところであり、今は島全体が博物館になっている。

彼らが故郷を離れるときに持参した大切な物品・旅行鞄、不安と緊張に満ちた上陸直後の写真や検問の様子が展示され、家系作りがブームとなっているという大勢のアメリカ人たちが見入っていた。検問の仕方には、時代相を表して生々しい待遇格差があった。一等と二等の船客の移民に対しては、係官が船まで出向いて便宜を図った。最多数を占める三等船客は、下船して大部屋に収容され、名前を呼ばれるまで辛抱強く待機しなければならなかった。

 

研究生活の実感


旅、特に海外への旅にはいつも効用と刺激がある。内面の気分転換と外面の発見である。旅に出ることによって日常の営為を一時的に断ち切ることは、新鮮な発想への刺激があり、異国の文物に出遭うことは、自国のそれとの対比を考えさせずにはおかない。

40年におよぶ近江商人の研究で、蔵のなかの塵埃にまみれた古文書と取り組んでいた若い時は、それが日系カナダ移民への関心を引き出し、やがて毎夏のヴァンクーヴァ―滞在を恒例とするようになるとは思いもよらなかった。事物や事象は単独で存在しているのではなく、まさに「一坪の土地の歴史」を調べることは広い世界に通じていることを実感する研究生活となった。

現代がいかにデジタル時代とはいえ、テレビやインターネットを通じて見聞するだけでなく、現地と現場の匂いを嗅ぎ、舌で味わい、アナログ的に五感のすべてを活かして初めて得られるもののあることを痛感した。

旅のススメ、これこそ春秋に富む人々への2013年春に退職する私からのはなむけの言葉である。                           

                        (『同経会報』75号、20134月)

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