2013年6月13日木曜日

定年退職記念メッセージ:教壇と礼節


経済学部の父母会から、定年退職記念のメッセージを求められた。このような場合、通常は父母会との関わりや思い出を綴るのであろうが、3人の子供を育てた体験があるので、教師の立場からだけでなく父母の側からも、学校や教壇への感想を述べてみたい。

大学に籍を置く以上、研究者であると同時に教員でもある。どちらにウエイトをかけるかは人様々であろう。いずれにしても教壇には立たねばならない。

講義には、大きな負担と緊張がともなったことは間違いない。近江商人史を含む日本経済史の講義を担当し、一話完結型の講義の積み重ねによって、暗記モノではない、大きな流れを理解できるような歴史を心がけてきた。講義開始のベルが鳴っているのに、ノートの準備が間に合わずに、焦りに焦って夢から覚めることもあった。

近頃は、講義を授業とも呼ぶようになったが、私自身は講義と解釈してきた。自分をふつつか者と心得ながら、教壇に立って講義という義(人の道)を講じる以上、せめて外形なりとも毎回ネクタイを着用することを自分に課した。講義の初回に、軽い吃音と板書の字が汚いことを自分の欠点として明かすと同時に、講義への想いを語り、受講生にもそれなりの受講態度を要求した。

子弟を学校に預ける父母の立場からすれば、礼節をわきまえた、できるだけ人品の優れた先生に託したいと願うのは当然である。東京の都心から少し離れ、滑走路跡という長い桜並木のキャンパスを持つ大学の入学式に、父母として出席したことがある。その時の学長の挨拶は、自校が優れているのは単に自然環境だけではないといったことを、若干のユーモアを交えながら自讃する品の好い祝辞であった。

反対に、公立中学校の授業参観で出くわした光景は、大きなショックをともなった。授業に現れた担任の先生の服装は、家庭着のようなジャージーの上下であり、足はツッカケのまま、教科書は手に丸められていた。この中学校では、毎朝校門で生徒への厳しい服装チェックを行っていたというから、呆れるというも愚かな暗澹たる教育の現場であった。

昨今のスポーツを巡る体罰問題を論じるまでもなく、学びの場において決定的に重要なのは、教師や指導者の姿勢である。万巻の書を読んでも、聖人の書に込められた学問の真意を知らなければ、本当の学問ではないと指摘したのは江戸時代の石田梅岩である。ただ文字ばかりを知り、字面の解釈に通じているだけの学者を“文字芸者”と痛罵した梅岩の指摘は、今なお真実である。
(同志社大学経済学部『父母会会報』102号)

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