2012年3月11日日曜日

去年、416日に書いた「大震災に寄せて―今こそ“希望”を」を、近江商人ブログの番外編としてここに採録します。事態は1年前とほとんど変わっていないからです。 

番外編:  大震災に寄せて ― 今こそ“希望”を
2011311日、現存の誰も経験したことのない数百年単位でしか突発しない大震災が発生してしまった。どんな言葉や表現よりも、TVの画像が自然の暴虐(ぼうぎゃく)の威力を眼前に繰り返し見せつけた。
 地震と津波と原発事故が重なるという明らかな非常事態である。地震と津波は天災としても、原発事故と数十万人の被災者への対応は、もはや人災と呼ぶほかはない状況に陥っているといわざるを得ない。
 被災後1カ月を過ぎても、震災関連の法案は1本も国会に提出さえされていない。原子力発電にも放射能にも素人である政府首脳が、事態悪化の追認を繰り返した挙句に、「計画避難」という生活の根拠をくつがえすような避難指示を、何の対策もないまま出している。
 他方、原発事故の当事者であり、コストカット(経費節減)で上りつめた文系社長を戴く東京電力は、漁業への影響も海外の反響も考慮することなく、中古タンカーによる処理案も一蹴して、通告する前に放射能汚染水を海に放出する始末である。
 政府にせよ、企業にせよ、これほどまでに愚劣なトップが居座り続けることの災厄は、これからの復興にとって深刻な障害となることは誰の目にも明らかであろう。例えば、首相の肝いりで発足した、政治学者を議長とする復興構想会議の議論である。初会合でさっそく提起されたのは、震災復興税という増税案であった。平時でさえ難しい提案を、いまだ被災者の生活の展望も拓けない非常時に、構想もなしに不用意に持ち出す安直な対応には、ハナから失望せざるを得ない。
 その場しのぎの、継ぎはぎだらけの言動をする人間と思われてしまっては、政治も復興もない。真に復興に手をつけられるのは、もはや国民の信を得た政治のみである。一丸となって再生に取り組む体制の構築こそ急務である。
とはいえ、日々の生活は待ったなしである。突然の大震災によって理不尽に命を奪われた人の無念さは察するに余りあるが、身をもって逃れ、危うく命を全うできた人々にも生活の再建を図る苦難が待ち受けている。
家も庭も全てを津波に流され、かろうじて見つけた桜の幹の断片を手にした若い父親が、「毎年、この桜の下で花見をしていました。今から思えば本当に夢のような日々でした」と語っていた光景が忘れ難い。人間の生活は本来無常であり、明日の分からない危ういものであることをあらためて実感させる映像であった。
 もちろん、この日本列島には昔から天災地変が幾度も繰り返された。過酷で甚大な被災を受けた場合、人々はどのような心情と覚悟で日々を送ろうとしたのであろうか。
 そのような時に想い出されるのは、二宮(にのみや)(そん)(とく)のことである。尊徳の幼名は金次郎。金次郎は、小学校の校庭に建てられた、(たきぎ)を背負って歩きながら読書する像によって知られている。金次郎は、天明7年(1787)に相模(さがみ)国(神奈川県)の農家に生まれ、後に尊徳と名乗った江戸後期の農村復興運動の指導者である。
 没落した自家を勤倹力行に努めて再興した。具体的には、人並みすぐれた体力を活かして厳しい労働に耐え、年貢の掛からない荒地を耕作して得た稼ぎは、田畑を買い求めたり貸金に回したりして回転させた。
26歳で武家の若党(わかとう)(従者)となって主家の財政を立て直したのをきっかけに、荒廃した関東農村の再建を求められ、転居を繰り返しながら復興に奔走する生涯を送った。没年は安政3年(1856)、享年70
 尊徳の時代は、歴史的な大きな災害はなかったとはいえ、それでも悲惨な天保の飢饉(ききん)は発生している。自然の暴威に備える手段の乏しかった当時、農村復興に命を懸けていた尊徳の心情は、次の歌によってうかがわれる。

  この秋は雨か嵐か知らねども
      今日の務めに田の草を取る

 西洋にも似たような表現がある。「たとえ明日地球が滅ぼうとも、今日リンゴの木を植えるだろう」という意味の言葉である。
尊徳の「今日の努め」の歌、西洋の「リンゴの木」という表現は、不確定な未来に何が起きようとも、人間は創造的活動から離れることはできないという意味で、ともに希望を語っているとも解されよう。被災者や被災地、そして日本全体に向けて今こそ届けられなければならないもの、それは“希望”である。(2011.4.16記)

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