2012年3月8日木曜日

経営は生き物、二代目塚本定右衛門の格言

商家の経営姿勢を重視した二代目塚本定右衛門定次は、63歳となった明治211888)年518日に、次のように述懐しています。

 一 (前略)人を(あざ)むき短尺無幅等の物品など用ゆべからず、只潜心(せんしん)留意実地の商業大切にして長久を計るべし、投機商類似を羨むべからず、目下の利を見るも損また大ひなり、物の盛なるは衰ひやすく、商家の極意は信用を重んじ内外の好評を得るにあり(後略)

このなかで定次が、商いで大事なこととして諭していることは、短尺物や無幅
物などの人を欺くような欠陥商品を取り扱わないことであり、地道な商売を行うことに専心し、家業の永続を図ることです。投機商人のようなやり方は、たとえ一時の利得を得ることがあっても、損失もまた大きいものである。商家の極意は、信用を重んじて内外の好評を得ることにこそある、と説いています。
ここには、不正な利得を忌み、(おご)ることなく正路の商いによって、家業永続
をはかることをもとめた経営姿勢が打ち出されているのであり、利益と商いの手法は、不可分のものとしてとらえられていることのよく分かる一文となっています。
 定次は、このように正しい商いをするべきであると説く一方において、他方
では正しい商いをしていてもどうにもならなくなる場合のあることもよく(わきま)
えていました。そのことを明治2年の「家内申合書」のなかでも、「窮して心を
動かさず」と題して次のように述べています。

 すべて物事手堅く致し候とも、思ひの外なる損失来る事あるものに候、古今の歴史に(かんが)みて知るべし、いかなる因によるか、いかなる縁によりてか、道を守る善人も窮する事のあるも世の習ひに候へば、その不仕合(ふしあわ)せの重なりし時におよびても、常々の心を乱すべからず、必ず道に背き規則を越えるなどの事あるまじく候、投機商類似を羨むべからず、一時に利得を得んとしてかえって損失を招く事あり、深く恐るべし

 右の文意は、以下のように解釈されるでしょう。すべての事柄を手堅く堅実に運ぶような人であっても、思いがけない損失に見舞われることはあるものである。それは古今の歴史を振り返ってみれば、いくらでも例のあることである。どのような因縁によるのか、いかなる理由にもとづくのか、はっきりとは分からないが、きちんと人の道を守って生活しているような善人であっても、時によって行き詰まり苦しむことがあるのは、人の世の常である。
たとえ不孝な巡り会わせが重なることがあっても、動揺して平常心を失い、
自棄になって人の道に背いたり規則を破ったりといったような、心の闇に迷うことがあってはならない。一挙に儲けて形勢を逆転しようと、投機商のような行為に走っても、却って損失を大にするだけである、と諭しています。
それでは、思いもよらない不運に出遭って窮地に追い詰められたときは、ど
のように対処したらよいというのでしょうか。この点についても、定次は前文に続けて周到に次のように述べています。

 我が身を慎み、諸事を(つづまやか)かにし、ますます家穡(かしょく)をつとむべし、しかれば家内和合して天道に合い、気運徐々に開くべし、永久の心得を相続する人、この理りを知るべし

 不運が重なり、悲運一身に集まるような場合は、自分の身を包み引き締め、
言動を控えめにし、生活を内輪に質素にするように努め、家業に専心すること
である。そうすれば、家内は和合して天道にも適い、やがて形勢も好転するで
あろう。人生の極意を得ようとする人は、この道理をよく弁えることが大事で
ある、というのです。
 定次は、商いにおいては常に内外の情勢の観察をおこたらず、時勢に遅れな
いように昼も夜も工夫が必要であることを力説して、この一文を結んでいます。
ここにおいて、定次の根底には、経営は生き物であるという確固とした認識
があっての格言であったことが知られるのです。

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