2012年2月25日土曜日

二代目塚本定右衛門の座右の銘「薄利広商」

初代塚本定右衛門教悦には、二人の息子がいました。嘉永4年(1851)に二代目を相続した文政9年(1826)生まれの長男定右衛門定次は、その実弟で万延元年(1860)に分家した天保3年(1832)生まれの次男粂右衛門(くめえもん)正之と協力し、呉服太物の卸売りを家業の中心にすえ、江戸時代に開店した京店につづいて、明治5年(1872)に東京日本橋伊勢町に東京店を開店させ、幕末維新の動乱期にも家業は隆盛でした。
その後の塚本家は、明治22年に塚本商社として会社組織を採り、26年に塚本合名会社に改組し、29年に小樽店を開くなど、商運は伸展しました。資本金100万円の株式会社塚本商店が誕生するのは大正9年(1920)のことです。
定次・正之兄弟の父親である初代定右衛門教悦は、徹底して得意先の利便をはかる対応こそ、利益の源泉であるとの信念を抱いていました。このような顧客満足を第一とする姿勢は、二代目の定次にも受け継がれたのです。
まず、明治維新という新時代に出会った定次は、それにふさわしい体制を築くために、明治2年正月に商いの基本姿勢を打ち出した「家内申合書」を制定しています。そのなかでまっさきに掲げられているのは、「家名相続して国恩を思う」という、次のような遵法(じゅんぽう)精神を説いた条項で

上下の船積み、他国の出稼ぎ、道中往還等については、水火盗難、或は世上の人気動揺候はば、仕来りの商売も成りがたく、迷惑いたすべくのところ、何国へ参り候ても、少しも滞りなく商いいたし候は、全く大政府の御蔭に候えば、御国恩の重き事、常々忘るまじく、せめては、時々仰せ出されの御規則をかたく相守り、我身を慎み、渡世(とせい)向きに精を出すべし

内容は、次のような文意としてまとめられます。自分たちのような商業従事者にとって、上り下りの船への商品の積載や他国への出稼ぎにおいて、その道中で水難火難や盗難などに出会ったり、世上不安であったりしたならば、これまで続けてきた商売も成り立たず、迷惑するところであるが、どこの国へ出かけても円滑に取引ができるのは、まったくもって明治政府の御蔭である。平和な世の中が維持されているその国恩を忘れないためにも、せめて政府から出る布令は厳守し、身を慎みながら仕事に精進すべきである。
戊辰(ぼしん)戦争が終結し、維新政府が統一政権となったばかりの時点で、はやくも平和回復を達成した政府の功績を、国恩という表現で大いに称賛していることは、塚本家が幕末の動乱で京都店を焼失した災難が下地になっていると思われ
第二項の「()(しゅ)の利益を(はか)る」のなかには、以下のような一節があ

 一 旅方においては、御得意先のため()(くち)のよろしき()呂物(ろもの)を大山にして、売りきれ物なきよう注意し、御注文の節は、(いささか)たりとも捨置かず、はやく御間に合せ申べし、御店へ参上の時、行儀正しく御店中をはじめ出入方迄も厚く敬ひ申すべく候、万一間違事出来候とも、高声に争はず、その時の重立たる人に談しあひ、不都合これなき様に計うべし、左候えば、天理として自然に商ひ高も増し、随て利益も多かるべきに付、能々(よくよく)相心得べし

行商先では得意先のために品質の良い商品を十分に準備して、品切れのため注
文に応じられないことのないように配慮し、たとえ少量の注文でも迅速に対応すること。得意先のほうから来店した場合は、店員はもちろん、出入りの職人も丁寧に礼をつくさねばならない。万一、商談中に行違いがあっても声高に言い争わず、重職の店員と相談して穏便に処置すること。そうすれば、売上高も増加して自然と利益も増えるものである。
ここでは、顧客本意の商いをしていると、結果として利益の増加につながる
のであり、徹底して顧客満足を追究することの大切さが説かれています。父親の商いの真髄を継承したこの精神に基づいて、定次は座右の銘を「薄利(はくり)広商(こうしょう)」としたので

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