2012年2月21日火曜日

近代経営への芽生え―近江商人の妻の役割
近江商人の妻という場合、象徴する道具は(きぬた)でしょう。砧は麻や木綿などの目の粗い織物を、堅いケヤキなどの木の台の上に置いて木槌(きづち)で打って、柔らかくしたり光沢を出したりするために使う道具です。砧を打つことは、古来女性の夜鍋仕事でした。
今となっては、見かけることもない道具であり、聴くこともできない音ですが、俳句では秋の季語となっています。秋の夜長に響く「トコトン、トコトン」の哀愁をともなった音は、長い旅に出た夫の身を案じつつ孤閨(こけい)を守る妻の「想夫恋」の感がありました。
 近江商人の妻は、多忙であり、重要な役目を負っていました。子供の養育から入店した奉公人の世話、出店への食品・衣料品・寝具等の発送など、行商や出店巡りの夫の留守宅を預かるために、家政全般を取り仕切ったのです。ときには、奉公中に不始末をしでかし、一旦は解雇を通告されて帰郷した奉公人を訓戒し、更生させ、再勤務を仲介する場合もありました。また、一般の家庭の子女を預かって一人前の女性に教育するため、(しお)()みと称される嫁入り前の短期間の行儀見習いの指導を受け持つこともあったのです。
妻の役割を、総合商社伊藤忠・丸紅の基礎を築いた初代伊藤忠兵衛の妻、八重(やゑ)の例で見てみましょう。犬上郡四十九院(しじゅうくいん)村の藤野惣左衛門の長女として、嘉永年(一八四九一一一四日に生れた八重(幼名、幸)は、慶応年(一八六六)に一八歳で近村の犬上郡八目(はちめ)村の(もち)(くだ)り商の忠兵衛に嫁ぎました
八重は、ずっと本宅を守っていたので、その仕事は多岐にわたりました。大阪の出店で使う米・麦の仕入と精白、味噌の製造、沢庵・梅干の漬込み、茶・たばこの選定と、これら物品の出店への発送も担当したのです。夏冬には、大勢いる店の丁稚への襦袢(じゅばん)・帯・前掛けの選定と仕立て、夏季の布団の洗濯、綿の打ち換え、仕立て直し等、年中多忙な日々を過ごしました。
体付きは、当時の夫人としては大柄で、強健であり、性格は清純で強い意志力を持ち、浄土真宗の篤い信者でした。教育としては、寺子屋での読み・書き・算盤を習ったのみでしたが、算用数字(0123)の書き方と計算を夫の忠兵衛から習得し、よくハガキを書いたそうです。昭和二七年四月二九日に一〇三歳で亡くなりましたが、没する前年に表敬訪問した県知事を接待した際は、もてなしの道具類一切を蔵から出す手順を指示するなど、晩年まで意識明瞭であり、五〇歳台にも成った息子の二代目忠兵衛を叱正する気丈さも持ち合わせていました。
 このように近江商人の妻は、留守を預かる主婦や子供の母であること以上に、事業のパートナーであったといえます。二〇〇年以上の社歴のある老舗企業が、日本には三〇〇〇社強あり、世界の四割を占めています。江戸時代の商家経営のうちに近代経営への芽生えがあったからであり、転身を可能としたのは代々の日本女性の献身も大きな要因でした。

0 件のコメント:

コメントを投稿