2012年2月18日土曜日


 近江大店の後継者の育成


 資産を築いた近江の大店でも、家業の永続は大きな問題でした。そのためには後継者をいかに育てるか、ということが重要だったのです。娘に有能な子飼いの奉公人をあてがう場合もあったが、それは後継者に人を得ないときであり、通常は息子が後継者の第一候補でした。それだけに、将来は大店の当主となる子弟の教育については、家訓でも明文化されていたものです。

 京都に本店があり、南部盛岡に出店のあった小野善助家の享保一三年(一七二八)に制定された家訓の「覚」でも、男子の商業訓練についての次のような一項を設けています。

 

 この家にて出生つかまつり候男子、十五歳になり候は、南部店に差し下し、手代同前に使い、商い仕習わせ、二十四五までも差し置き申さるべく候、成長つかまつり候時分、京に差し置き、世上の(おご)りを見習わせ悪性者になり候こと、不便に候あいだ、必ず南部へ差し下し、大方心入りもよくなり候節、呼び上せ申さるべく候



 小野家に生まれた男子は全員、一五歳になったら、奥州の南部店に派遣して、

奉公人の手代と同じように商いを見習わせ、二四~二五歳になるまで修行させ

るという取り決めです。青少年期にむざむざ繁華な京都にとどめておいては、

奢りの気風を見習い、性悪者になるだけであるから、必ず南部店で10年余を過

ごさせ、誰の目にも心にかなう人間に成長してから京都に呼び戻すことに決め

られているのです。

 また、安政三年(一八五六)の外村与左衛門家の「作法記」では、主人の(せがれ)

を小野家の場合よりももっと早く商い修行に出し、その後に当主に納まるまで

の行程を次のように定めています。



 拾弐歳より店へ出、平の子同様に見習い致すべきこと、早く出し候えば、当人は思いのほか苦労に思い申さず、これより家族いよいよ尊敬いたすべく、かつ家族の勤め方を思いやり、人の善悪を察する基なり

 拾六歳元服 これより若旦那と申すべきこと、家督までは勤番役の下につけ、格式は例頭、別宅の間なり

 弐拾五才 家督、これより本主人、両親隠居いたすべきこと、但し後見

  

 主人の息子は、一二歳になったら出店に配属し、普通の子供と同様に見習い

修行をさせることになっていることが分かります。その理由を、年少の頃から

店に出れば、本人は修行をそれほど辛く感じないからというのです。また、少

年の時期から苦労を身に着けて育つので、思いやりや人物の善悪を見分ける眼

力が着くと判断しています。

一六歳で元服して若旦那となり、席次は別宅の次の席を占めると規定されて

います。そして二五歳で主人の座に着き、両親は隠居して後見人になることも決められています。若年時に苦労することによって、当主の自覚と資格を得るという考え方が説かれているのです。

 ただ、このように幼年のときから召使同様に働かせると、本人が当主となっ

た後、奉公人達のなかに主人を軽んじる者も出てくる恐れがあります。その場

合は、店をあずかる支配人や後見人が指図して矯正することを周到に定めてい

る家訓もあります(丁子屋小林吟右衛門家「示合之條目」)。

 当主になった後、主人に私欲のために資産を危うくする振舞いがあれば、奉

公人から弾劾をうける場合がありました。山中兵右衛門家の四代目は家業に身

を入れなかったため、文政一二年(一八二九)二五歳のときに、店支配人をは

じめとする奉公人から、改心しなければ、全員退店するという通告をうけるに

いたりました。これなども、奉公人の諫言による当主の強制的訓育といえまし

ょう。

 そして、店関係者一同から当主に改心の見込みなしと判断されれば、当主を

罷免するという押込め隠居の規定が、近江商人の家訓には盛り込まれていまし

た。

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